autobiography # 032 それでも日本語の乱れを憂う

  近頃の若い者は言葉がメチャクチャで、などと言うようになるのは自分自身が頑迷固陋の徒になったことの証明で、そういうことは昔からよくあったようである。

  清少納言の枕草子にも

  難義の事をいひて、「その事させんとす」といはんといふを、と文字をうしなひて、唯「いはんずる」「里へ出でんずる」などいへば、やがていとわろし。まして文を書きては、いふべきにもあらず。物語こそあしう書きなどすれば、いひがひなく、作者さへいとほしけれ。

  などとあり、近頃のものは「『むとす(んとす)』というべきところを『むず(んず)』と言ったり書いたりしていやったらしい。」という趣旨のことを述べている。ああ頑迷固陋の清少納言。その「むず」で歌ってこそ平家物語の名調子は生まれるのだよ。

  にもかかわらず、時代についていけないわたしである。さて、インスタントサッポリアンで『よろしかった』の衝撃について述べた。どうもこの変化は地方による共時的変移ではなく、時代の趨勢による経時的変化らしいことが近畿地方に在住する友人によって知らされた。じつはこればかりではなく、『××円から預かります。』というのもあって、

  ト スーパーマーケットのレジスタ前で、

 わたし「これでお願いいたします。」

  ト 千円札を差し出す。

  店員一号「千円からお預かりいたします。」

  わたし「……」

  ト 絶句する。

  心の声「千円からって、千円札なのに千円からいったいいくらを預かるんだろう。ああああ、千円全部もってっちゃったよおおお。」

  ト お釣りが返される。

  わたし「どうも、ありがとうございます。ありがとうございます。」

  心の声「ふううう、助かった。」

  べつに千円を預かって、そこから代金を受けとってくれても構わないし、千円から代金を頂戴してくださっても構わないんであるけれど、千円から預かりますといわれてはいったいいくら預かるのぉ、と毎回ヒヤヒヤしてしまうのである。もう長らくそういう経験があるのだが全然慣れない。悲しや。

  「感情移入」というのも最近目にすることの多い言葉であるが、この言葉はわたしになじみの深い用法では、例えば

  シャガールよりもむしろクレーのほうが叙情的であるというと奇異に響くかもしれないが、クレーは一種幾何学的ともいえる文様や色彩を感情移入によって、極めて叙情的な形象として表現する。 〈後略〉

  といった使いかたをされる。命をもたぬ色彩や土くれに作者が感情を移入することによって生命がふきこまれるといった意味合いで使用される。

杜甫の春望に「感時花濺涙」とあり、これは「時に感じては花にも涙を濺ぎ」と訓読されることが多い。けれども『新唐詩選』で吉川幸次郎博士は「時に感じて花も涙を濺ぎ」と花を主語として読んでいる。つまり花が涙を流す(かのようにハラハラと散る)のである。これこそまさにそれで、作者杜甫の感情が花に移入されているわけである。

  現実の人間の演ずる芝居以上に生命もたぬ人形や絵の演ずる人形芝居、アニメーションのほうに一種呪術的な生命を感ずるのはまさにこれである。

  移入される対象は人間や動物であってもいいわけだが、もともと感情をもっているものにこちらの感情を移入すると双方の感情がバッティングしちゃいそうである。

  さて辞書にはどんなふうに載っているかというと

  広辞苑第五版 かんじょう‐いにゅう【感情移入】(‥ジヤウ‥ニフ)

  (Einfaehlungドイツ) リップスの心理的美学の根本原理。芸術の本質を、対 象や他人のうちに作者の感情を投射してそれらと同化することにおく。

  岩波国語辞典 かんじょう【感情】

   −いにゅう【―移入】自己の感情を、対象の中に投射して、その対象と 自己との融合する事実を意識すること。

  こんなところである。ところが、映画や小説の登場人物に対して視聴者や読者が自分がその登場人物になったかのような心持で見たり読んだりすることを「感情移入」という言葉で表現しているらしいケースがままあり、とても気になる。わたしはこの手の観賞のしかたが苦手で学校の先生に「登場人物になったつもりで読みなさい」などといわれると「うわあ頼むからそういうのカンベンしてくれい。わたしから読者という神さまの坐を奪わないでくれい」と思うタチではある。が、それはそれとしてもそういうのは「追体験」というタームでもって表現したい。少なくとも「感情移入」じゃなくて「同一視」とか「摂取」だろうと思うのだ。

  ヨメハンに聞いたところ、こちらの使い方のほうが寧ろ普通で、誰がいちいち心理的美学のキータームなんかで喋るもんかと一蹴されてしまった。言葉は人が使ってナンボだから、間違ってるの、おかしいのと騒いでもはじまらない。ごめんなさいわたしが悪うございました。

  「微妙」というのも、近頃どうも気色わるい。わたしの慣れた用法というのは「微妙な色彩の変化に注意しよう」とか「微妙にニュアンスが変化します」とか、修飾語として使われることが多いのだが、述語として用いられる場合は「これが実際に可能かどうかは微妙である。」つまり「状況次第で細かな差異ができてどちらとも言い難い」くらいの意味合いである。

  ところが、受験生あたりに「こんどのテストで英語は良かったんだけれども、数学はちょっと微妙なんですよね」などといわれたりするのである。微妙って、微妙にどうなのおおおお。良いとも悪いともいえないとかそういうことかあ。あまつさえ、「××さん微妙な顔をしてましたよ」などといわれてしまう。「微妙な顔」ってどんな顔なんだああ。

  しかし辞書はひいてみるものである。

  広辞苑第五版 び‐みょう【微妙】(‥メウ)

  〈1〉美しさや味わいが何ともいえずすぐれているさま。みょう。玄妙。「―な 調べ」

  〈2〉細かい所に複雑な意味や味が含まれていて、何とも言い表しようのないさ ま。「―な関係」

  類語実用辞典 びみょう【微妙】

  玄妙 深遠 幽玄 神秘 妙(たえ)〈なる笛の音〉
繊細 微細 細かい デリケート

  なるほど、「何ともいえずすぐれている」のね。わたしの無知でありました。

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2003/10/3