ayya #29 中宮定子は、大進生昌が家に。

  「大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに、…」は枕草子の第五段だが、このあと女房たちを乗せた車が北門からは入ることが出来ず、筵の上を歩くハメになってカッコ悪かったというのは、高校の古文の時間に読まされるところである。しかし、中宮定子とその一行が平生昌(たいらのなりまさ)の邸に行啓したのは出産のためで、中宮ともあろうものがこんな粗末な邸宅に宿下がりしたのには理由がある。

  995年に藤原道隆、道兼があいついで没し、その後継を巡って道長、伊周の争いとなる。が翌996年、花山法皇狙撃事件で伊周・隆家兄弟はそれぞれ太宰府と出雲へ配流と決まった。しかし、兄弟は重病と称し、姉である定子のもとに逃げ込んでしまう。だが捜索がたは強行突破して隆家をとらえ、伊周もあきらめて西へ向う。定子は邸内捜索の恥辱と悲嘆から出家してしまう。おまけに二条の邸が全焼したため焼けだされ、平惟仲(大進生昌の兄)のもとに身を寄せる。ここで既に妊娠していた定子は内親王を出産する。一条天皇は内親王にあいたがり、翌997年伊周・隆家は恩赦となり、定子は再び参内する。が、出家しながら後宮にはいったことで貴族たちからは冷ややかな目を浴びたという。が、天皇の寵愛はまだ定子にあり、ふたたび定子は懐妊、999年敦康親王を出産する。このときもはや後ろだてのない定子を迎えいれたのが生昌というわけである。

  なお同日、一の人藤原道長は人々を率いて宇治の別荘(後の平等院)に出かけ、これを憚った貴族は誰も中宮の行啓に参じるものはなく、寂しい行啓となった。そして出産のその日には新女御、彰子の入内、彰子の直廬(部屋)への天皇の渡御があった。勝負はすでについていた。翌1000年ふたたび参内した定子はすぐに懐妊し、同年12月出産の際に死亡した。享年25歳、15歳で中宮に立后されてから10年であった。

  枕草子が書かれたのはこの定子サロンの落日の時期、ないしは後であり、幸福だったころへのノスタルジーであったわけだ。

  (今回の元ネタは講談社『日本の歴史06 道長と宮廷社会』)

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2001/06/30