はげましのお声、ないしは罵詈雑言ありあり版
1665
おなまえ
U子
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あらら?確認してみたらウィトゲンシュタインは天寿を全うしてるけど、ウルフって自殺してたのね〜。
無知を暴露してしまったアタシなのでした(^^ゞ
日付Sun Apr 8 10:49:32 2007
1664
おなまえ
U子
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ウィトゲンシュタインについては、Wikipediaからの知識のみしか無い不勉強者ですので「偉大な業績の割に数奇な人生を送った人」くらいのイメージしか無かったのですが、このところの話題で俄然として興味が湧いてきました。「サルにもわかる入門書」なんてのがあったら教えてくださいませ(^^ゞ
そういえば
Wiki>哲学者は哲学的命題を扱う職人であるよりはむしろ苦悩や混乱を解決するセラピストのようであるべきなのだ。
ってホント?だったら余計に関心ありまくり。
ドストエフスキーの中で最も愛してるキャラクタがキリーロフだったりする私としては、
Wiki> ルートヴィヒ自身も常に自殺への衝動と戦っていた。
micmic> ウィトゲンシュタインの場合、どうも自分をダメな人と考えるクセがあるので、
ってくだりで、彼への愛着が急に湧いたりしている今日この頃なのでした。
ウィトゲンシュタインって「自分が生きている」って実感を持ってたのかしら?
印象に過ぎないんですが、ウルフを代表として(しまうのもちょっと問題があるけれど(^^ゞ)、「一般的に」女のヒトの方が男のヒトより「生きてる」って実感を持っている割合が高いんじゃないかな〜?なんて感じているのでした。
micmic> でも、これって、クラウスの女オリエンタリズムとそう大した距離にはいない。
かもね♪
そこらにこだわるのは、自分が小学生の頃以来「身体は生きてるけど、精神的には生きてない」って実感を持ち続けてるから。でも「このまま身体を生き延びさせていけば、いつかきっと精神的に生き返れるかも」....なんて諦め混じりの予測だけで、30年以上を過ごしてきたような気がします。こりゃ、無理が来て鬱を発症するのは当然だわな(笑)。
例の如く「ひぐらしのなく頃に『目明し編』」からですが、
---- 引用:ここから ------------
つまり、…………私はもう、…死んでいる、のだ。
「…………死人がなおも足掻こうとしたら、………そりゃ特攻あるのみでしょ。」
口にして、両の拳をぐっと握り締める。
どうせ死ぬにしても。…ただじゃ死ねない。
---- 引用:ここまで ------------
てくだりに無茶苦茶リアリティを感じてたりするのであります。
日付Sun Apr 8 07:28:45 2007
1663
おなまえ
micmic
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記憶では、ウルフが例のごとく
「女の子にも自分の部屋が与えられれば、彼女たちはもっと哲学や数学やさまざまの能力を伸ばすことができると思う」といった主旨のことをいうのだけれども、
ウィトゲンシュタインにとって、日常言語はすでに完全で、哲学は哲学的な誤りつまり言語の不適切な使用をする人を日常言語に戻してやるためだけに存在しているものだから、
「女の人はすでに、哲学や数学なんかよりずっと素晴しい世界に生きている。好んでつまらないことをする必要はないのじゃないか。」という。
ところが、ウルフにとっては、その哲学的な誤りを犯して、それがバカな間違いだったと悟るということをこそやってみたいものだから到底納得できない。
手に入れてしまった人にはいかにつまらないものでも、それを手に入れることができない人にはとても素晴しいものに見える、まあそんな感じでありました。
ウィトゲンシュタインの場合、どうも自分をダメな人と考えるクセがあるので、その分女の人の世界を何か素晴しいものと思いこんでしまうのですね。だから、女の人が男どものやっているつまらないことなんかに手を出そうとするのが理解できないわけです。でも、これって、クラウスの女オリエンタリズムとそう大した距離にはいない。
あの
「性」の部分を「こまやかな情愛と生活に密着した現実性」
「理性」の部分を「浮世離れした観念的な屁理屈」
とでもいいかえてやるとまあ、同じことになるわけでした。やっぱり世紀末ウィーンの子なのでした。
日付Sat Apr 7 21:17:51 2007
1662
おなまえ
U子
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そうでしたか。でも、我が愛するリルケが出るのなら必読かも♪
# しかし、それ以前に、木村敏を読み終えるのは何年後になるのであろうかしら(苦笑)。
日付Wed Apr 4 16:41:25 2007
1661
おなまえ
micmic
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ゴメン、ゴメン、誤解を生む書き方でした。
グスタフ=クリムトとか、リルケはウィーンなので登場するのですが、
ウルフとかケインズはケンブリッジサークルなので、別の本なのです。
しかし、どの本だったか思いだせないのでありました。
>> 意外や意外.推理小説のようにおもしろい.
かどうかは、人によると思います。私の場合 s/ように/よりも/ ですが、専門ですからカウントしちゃいけません。
ひとみさんによるとやっぱり s/推理小説/小説/ だそうです。
日付Wed Apr 4 14:24:55 2007
1660
おなまえ
U子
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それは笑えそうですね♪
図書館の書庫にあるようなので、木村敏を一通り読み終えたら借りてみようかな〜☆
日付Tue Apr 3 21:30:32 2007
1659
おなまえ
micmic
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実はバージニア・ウルフとウィトゲンシュタインの対話というのもあって、これが当然ながら噛みあわなくて可笑しかったりするのだけれども、何処にあったか、思い出せなかったりいたします。
日付Tue Apr 3 20:18:22 2007
1658
おなまえ
U子
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> ……ところで、現実の女不在の観念的女権論者についていうと、身に覚えがあったりするのでした。
正座し続けるS少年、可〜愛いぃ〜♪
ぢつは、この手の「可愛い」系統の男性がウイークポイントだったりするU子だったのでした。
これも、アタシの「可愛さ」の「投射」なのかしらん?
日付Tue Apr 3 19:07:15 2007
1657
おなまえ
micmic
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そうね。いっそ、「アタシ『女』なんかぢゃないワヨ!」なんてのもいいすね。
だって、こいつら現代から見れば、まさにオリエンタリズムそのものだものね。
しかも、女に対するスケベー扱いが、どうみても男のスケベェの投射にみえるのよ。
困ったことに、未だにその末裔が世界中にゴマンといたりするわけなのだけれども。
……ところで、現実の女不在の観念的女権論者についていうと、身に覚えがあったりするのでした。
日付Tue Apr 3 18:40:50 2007
1656
おなまえ
U子
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うわぁ、なかなかなもので。
私めなんぞは「当時の全ヨーロッパ共通」で「テメェなんか女ぢゃねぇっ!」ってことになってしまう訳ですね\(^0^)/。
一度でいいから、面と向かってそう言われてみたい♪....けど、そんな蛮勇のある殿方には、幸か不幸か出会ったことが無いのでした(^^ゞ。
日付Tue Apr 3 17:19:55 2007
1655
おなまえ
micmic
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あら、速い反応。
>>でも、キーワードに「欲求不満」を持ち出して来るあたり、フロイトとクラウスの間に何の相違があるんだろう、
そうなのよ。まさにそこが世紀末・初頭ウィーンなのよ。フロイトが何でもかんでもリビドー(性的なほうのね)をふりまわすかと思えば、ファンタジーの人クラウスはクラウスで、こんな『女性』理解だったりするわけです。
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例えば、売春に対するクラウスの態度を考えてみよ。
シュテファン・ツワイクは、彼の青年時代のウィーンにおける売春婦の社会的役割を強調している。売春婦は、晩婚のウィーンのブルジョワ青年にとって、結婚前の――そして、結婚はきわめてしばしぼ企業上の合併にすぎなかったので、結婚後も――唯一の性的はけ口を提供したのである。けれども、この売春は不道徳的であると同時に社会的に必要であり、非合法的であると同時に、相当の犠牲を払いはするが、警察に保護されていたのである。一方、売春婦達自身はいたる所で病気と、それに女将や宿主の搾取に直面した。クラウスには、このような状況はそれ自身許すべからざるものであるだけではなく、現代ブルジョワのユダヤ=キリスト教道徳に固有の二心の主要兆候に思われた。だから彼は売春婦の擁護を皮肉ったが、売春婦を兵士よりも雄々しいともみなしたのである。兵士は、けが、病気それに死に直面しながら、現存する社会的秩序に奉仕していた。売春婦も同じであったが、それに加えて、社会的・法的制裁を受けていた。売春婦に対してとられた法的措置は、クラウスの眼には、彼女達を責める偽善者の側での私的な不道徳から、売春を禁じる偽善的な法律の側での公的不道徳への推移を刻するものに映じたのである。
彼は、このような悪と、それにこのような偽善をその法体系下に組み入れている堕落した社会との双方をののしった。彼は、『道徳と犯罪』というようなエッセイの中で、法体系をあざ笑い、このしいたげられた少数者の権利を弁護したが、それは、彼が、他のよりしいたげられた、性の少数者である同性愛者の権利を弁護したのと同じである。同性愛者について、クラウスが主張したことは、個人の性的な行為は、それが誰にもなんらの危害を加えない限り、全くその人だけの事情である、というものであった。異常な社会の本当の変質者や代理人は、これらのグループを新聞その他で激しく追跡する警察と中傷家なのである。
しかしながら、売春婦と同性愛の人々に対するクラウスの擁護の基礎は、もっと広く、女性の性についての彼の一般的な概念に根ざしているのである。クラウスの見るところでは、女は全く性的存在である。女が行うことは、どれもその本質である性から発する――行為は本質に従う。この点において、女は男と異なる。男は性的衝動をもつが、女は性そのものである。女は情緒であり、不合理であり、性の化身である。女は、見かけの上で男と同じ人種であるにすぎない。なぜなら男は少なくとも潜在的に理性的であるから、自分の性的本性を制御するという、女性に欠けている能力をもっている。かくして、女が自分の行動を合理的に説明できると考えることは意味をなさないのである。なぜなら、女の行動は、実際、その本性そのものである無意識の性によって決定されるからである。ウィーンの社会が、自分が断固として妻達に拒んだそのものを公認し、それを情婦に要求したこと、したがって自分が法的、社会的に禁じたものを私的に助長したことは、クラウスによれば、品行方正な殊勝ぶりの根本的な兆候であった。
女性についてのこのクラウス的な概念――これは、またフロイトや彼の他のウィーンの同時代人にはよく知られている論争から生じたものである――は、得体の知れないオットー・ワイニンガーの作品と並べて、またこれと対照して理解さるべきである。クラウスはワイニンガーの作品を称賛すると同時にそれに反対した。ワイニンガーは一九〇三年、ウィーンに二度ショックを与えた。
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まったく世紀末ウィーンな連中はどいつもこいつも。でも、ウィーンな状況は多かれ少なかれ、当時の全ヨーロッパ共通なのでしょう。
日付Tue Apr 3 17:10:43 2007
1654
おなまえ
U子
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メッセージ
> 意外や意外.推理小説のようにおもしろい.
と言われる割には、引用個所は少々「小難しく」感じちゃいます(^^ゞ
でも、キーワードに「欲求不満」を持ち出して来るあたり、フロイトとクラウスの間に何の相違があるんだろう、と思ってしまうのでした。
鬱病やってみるとわかるんですが、「性的欲求」なんてホント簡単に雲散霧消してしまうものなんですよね♪
2chの鬱関連スレッドでは「自分はヤル気が全く失せているけど、パートナーは満足させてあげたい。どうしよう」って悩みが、幾度と無く繰り返されているのでありました。
日付Tue Apr 3 15:42:55 2007
1653
おなまえ
micmic
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S.J.グールドによると、19世紀には、進化をダーウィンのいうような、樹状構造に広がる中立的な変化ではなく、低次から高次へ、下等から高等への一本鎖とみなす考えかたが流行したのだそうです。 で生命は、アメーバから細菌類から人類へ、未開人女性から白人の男性へと進化するという図式なのでそうで、骨相学・優生学はこれの科学的証明を企図して発展したのだそうな。(人間の測りまちがい。)ともあれ、科学に与える政治的、社会的イデオロギーの影響というのは古くて新しいネタではありますね。
ところで、19世紀末から20世紀初頭のウィーンとなると、これまた、厳格な道徳主義と、それを支える淫猥な現実、かつての栄光が消えさって、二流国になっていくハプスブルク帝国とそれを束の間忘れさせる文化的な繁栄。「世界の終り」というやつですねぇ。
実は『ウィトゲンシュタインのウィーン』という本が面白くて、ここに、フロイトとクラウスの論争が出ているのだけれども、このネタがまた、「ヒステリー」なのよ。ちょっと引用すると、
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無意識は、フロイトにとっては、クラウスの概念作用と正反対のものであった。フロイトの「イド」(個人の本能的衝動)は、精々理性によって追いつめることができるような、不合理で、自我中心的な、反社会的な衝動の沸きかえるような質紋であった。美的、道徳的価値は欲求不満の結果で、それはこれらの欲求不満が社会化したことの本質的な付属物であった。クラウスにとっては、これは個人と社会において健全なるもののすべての源泉である創造的フアンタジーとのきずなを断ちきることに等しかった。こういうわけで、新しい神話はそれが取って代わろうとしたものとほとんど同じであり、それが治療しようとした病気の、それ自身、もう一つの現れであった。実際、精神分析は、ウィーンの中流階級を悩ました心理的な問題を解決するというよりは、むしろそれらの問題を更に複雑にしたのである。
これらの問題の少なからぬものは、ヒステリーであった。つまり、なんら心理的な原因があるとは思われない肉体的な病気である。ウィーンのブルジョワ女性に共通したこの問題の真の根は、クラウスの見るところでは、ブルジョワの結婚がもつビジネス的な性格にあった。配偶者の個人的な満足を無視して、財界の名家を創り出すためにもくろまれた結婚は、確実に欲求不満を生み出した。特にきわめて厳格な社会の女性にとってはそうであった。夫婦の性が合わない時には、夫達は売春婦の所に行くかあるいはシュニッツラーがその小説や戯曲で作りなおすのにきわめて精通していたたぐいのあの情事に耽った。妻達にとっては、問題はもっと複雑であった。というのも、みだらな堕落した女だけが実際に性的満足を望み、享受でぎるのだと、彼女達は小さい時から教えこまれていたからである。彼女達が、性はやはり楽しいものだ、ということを発見した時、彼女らが自分達自身をこういう視点から考えるようになったとしても、なんら不思議ではない。結婚外の性は、夫達にとっては挑戦すべきゲームであったが、妻達には根深い罪悪感を生み出したのは当然であった。
社会的慣習が変われば、ウィーンの妻達のヒステリーもやむだろうとクラウスは固く信じた。男と女が、結婚を、二人が全面的に結ぶべき人生のパートナーシップ――ここでは、性的満足と精神的満足は一枚の硬貨の両側面であるーとみなすや、結婚生活は、理性とファンタジーが何の障害もなしに作用し合える舞台となり、そして、これにより、個人的な利益配当も文化的な利益配当も生じてくるであろう。そうなればヒステリーは「母性の流れ出るミルク」――すなわち、非常に多くのウィーンの中流階級の女の「成熟」の重要部分――でなくなるであろう。
言葉の辛辣さは、個人的な嫌悪以上のものの現れだったのである。精神分析は、彼の見解によれば、男性と女性、理性とファンタジー、意識と無意識の間のバランスを一層ゆがめることを目指したものである。それは人間をあの「起源」から更に遠ざけ、つまりファンタジーから遠ざけて、社会の危機を深めるだけである。「私は、ジグムント.フロイトとよりも、むしろジャン・パウルと一緒に幼時へもどりたい」と、クラウスはいい張った。ジャン・パウルにとっては、幼時は、われわれが行うすべてのことにファンタジーが生命を与える人生のその時期である。一方、フロイトにとっては、これは欲求不満に終わる一連の危機にほかならない。クラウスは、人生に対する精神分析的アプローチが、社会に対する順応を強調して、芸術家をおびやかすことを恐れた。
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なのだそうな。
日付Tue Apr 3 15:02:59 2007
1652
おなまえ
U子
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メッセージ
> ちょっと話が観念的過ぎて、よくわかんない、というのは「自然堂治療室掲示板」を見た印象でもあるのだけど、
そうそう、件のカウンセラー氏は、口頭でも「話をはしょり過ぎる」悪癖があります。
私も腹に据えかねたので、先日、口頭で釘を刺しておきました(笑)。
当人いわく「指摘Thanks。自分でも自覚して直そうとはしてるんだけど、なかなか直らなくって」とのこと。
まぁ、カウンセリングの本質であるところの「傾聴」は凄まじくキッチリ出来ているヒトですので、このくらいの欠点は我慢の範囲かな、とヘタレな私も妥協してしまうのでした(^^ゞ
日付Mon Apr 2 22:01:34 2007
1651
おなまえ
U子
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メッセージ
時々、このようにmicmic様から即時コメントを頂くこともあるのですよね♪
日付Mon Apr 2 21:22:34 2007