はげましのお声、ないしは罵詈雑言ありあり版
2040
おなまえ
wantang
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メッセージ
お久しぶりです。
こちらで公開されている「bbs.cgi」を勉強のためRuby化してみました。
使用条件等で問題があればお知らせ下されば即刻削除いたします。
(Linkclubのサーバの仕様のためディレクトリ構成,出力文字コード(->UTF-8)を若干変更しています。)
テストサイト
http://www1.linkclub.or.jp/~mokkun/cgi-local/byo/bbsrb.cgi
ソース
http://www1.linkclub.or.jp/~mokkun/cgi-local/byo/bbsrb_cgi.txt
日付Fri Apr 18 09:39:49 2008
2039
おなまえ
Sがい@久しぶりの登場
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メッセージ
う〜む。中3社会、経済分野。財政をどう理解してもらうか…。
歳入、国債、累進課税などなど…。困ってます。
日付Thu Apr 17 07:20:09 2008
2038
おなまえ
みのだうえる
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メッセージ
>これはダメです。あなたが高校生では1983年以前になってしまいます。
すんません、何も実家の日本通史まで引き出さんでも、本棚の隅に西尾幹
二の「鎖国は本当にあったのか」や井上勝生の幕末関連の本がありました。
だがしかし、積読になっていました。
きっと、micmicさんがサマリーにして書いたいたことがあるんでしょうな。
ぼちぼち積読の「積み木くずし」をしようかな...と日記には書いておこう。
日付Tue Apr 15 05:27:24 2008
2037
おなまえ
micmic
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メッセージ
>>遅いレスポンスです。
わたしも速くないです。ウェブは「書き物」なんだから、特段の理由がないかぎり急ぐ必要はないというのが私の基本認識です。
>>高校生のころは、開明幕僚こそ理知的で、攘夷いうとるやつは過激派と思うて、
小栗や横井がかわいそうでしたけれど、
これはダメです。あなたが高校生では1983年以前になってしまいます。市販の歴史本の史実認識があきれるほどちがうんですね。大化の改新はなかったってなはなしになっちゃうし、「水呑」は農民でもなければ、貧民でもなかったてなはなしになっっちゃったり。
江戸時代に関しては1990年代、少くとも1980年代の後半以降に書かれたものでないと基礎的な事実認識のレベルでまるでおかしくなってしまいます。いや、わたしも講談社『江戸時代』シリーズや2000年からの講談社『日本の歴史』、1995年からの中央公論社『世界の歴史』なんぞを読んで呆れるばかりでありました。
高校以前の歴史本の知識なんか、あとで、「ええーそうだったのー」というためにだけ学んだような。
例えば、前掲『日本の歴史』の00巻が網野先生なのですが、
>「鎖国」を続け、独自の箱庭文化で暮らし続けれれば、
というような鎖国観からはほど遠い例が出ています。バンクーバーで漁をする伊予の漁師だの、オーストラリアに真珠を取りにいって、中国に売りつけて帰ってくる紀伊の漁師だの、アイヌ交易でじつは清朝と取り引きしてしまう北方貿易とかまあ、いろいろと。
日付Mon Apr 14 13:01:31 2008
2036
おなまえ
micmic
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メッセージ
3点ですね。ひとつは朝尾先生、網野先生の例えば岩波新書『日本社会の歴史』や講談社『日本の歴史00巻』の立場と、みのださんのいう「経済としては横浜という一部地域での貿易で影響を小さくしようとしたけれど、金銀の交換比率や、木綿・絹糸の流出による国内での原材料の高騰で、限定策が破綻した、という流れ」とが齟齬すること。二つめはプチャーチンと江戸幕府との交渉の進展が「漸進的改革の破綻」と呼びうるものかどうか。最後が開港に伴う輸出超過は物価の高騰をもたらし、いわゆる五品江戸廻令を出さなければならない事態に到ったし、所謂世直し暴動、一揆、打ち毀し、「ええじゃないか」など、社会の不安定化へとつながったが、それが明治政府の経済政策、例えば松方財政などと比較して「社会を破綻させた」といえるかどうか、ということですね。
どれもとても大きい論題なので、すぐさま統一的な見解に立つのは難しいとは思います。ぼちぼちとモノの本など読んでいかないといけないでしょう。
とりあえず、簡単なところで、プチャーチンとの交渉の経過としては、前掲の「幕末・維新」によると、
プチャーチン、ペリー浦賀来航に遅れること一ヶ月半、七月中旬に長崎に入る。
交渉には川路聖謨と筒井政憲がロシア応接掛としてあたる。
ロシア宰相ネッセルローデの書簡は国境確定と通商をもとめる内容で、「日本国法を守る」と言明してあったため、川路・筒井はロシアを「穏かなる国」と位置付け、「友好外交」をはかる。しかし、ロシアはエトロフ島の折半、カラフトの領有を主張、日本はカラフトの南北分島、千島全島領有を主張して交渉は進展しない。
通商については、プチャーチンは「国を富ます」のであって、「国を害する」ことはないと主張、川路は日本は座して外国船を待つだけの立場にあるので、「異国通商は国の痛み」になると反論。プチャーチンはその国の値安のものを他邦へ売って、他邦の値安のものを持ち帰って高く売ることであり、利益は少くないというと、川路は「道理がある」とは認めながら、「さりながらまた一事の物語これあり」と切り出し、前日川路に贈られた高価な品は「(川路の)好みのもの」で、これを買うために「〔今着ている〕寒気を防ぐ衣」とりかえてしまいかねない、と反論。
川路のいっていることは貿易には双方の利益になる場合もあるが、国と国との経済力の格差が大きいときには「通商は国の痛み」になる。それは貿易の主導権の有無や、経済発展の格差によるもので、その点で、日本の海運力が遅れていること、高価な品、工業製品を欧米がつくっていることを指摘。
のみならず、ロシアやアメリカこそ、当時の世界の工場イギリスの自由貿易論に対して発展途上の自国産業育成のために保護貿易論で対抗していたのであり、通商が「国を害する」ことは充分知っていたはずなのである。
交渉が続くうちに一八五四年二月、クリミア戦争にイギリスとフランスが参戦。両敵国を避けたプチャーチンは沿海州インペラトール湾へ入り、交渉は断続的につづく。
日本海では英仏連合艦隊とロシア太平洋艦隊の交戦状態となり、イギリスのスターリング提督が長崎に寄港して、軍艦の日本寄港を求める。
当時、日本はイギリスの侵略的性格を忠告されていたため、長崎奉行の水野忠徳があたる。
水野はただちに幕府老中に伺い書を送り意見具申をする。これは幕府の現場重視の慣例で、ペリーの場合は浦賀奉行の意見具申が直接老中にとどくことになっている。
さてその内容はすでにロシアとは友好的関係に入っているから、その敵国を近づけては信義を欠くのでできれば拒否したい。しかし、現状では強く拒否する実力が日本にはないので、書簡の不分明な点を聞き糺して入港願いに間違いがなければ、アメリカにも許しているから、長崎と箱館との二港を許して談判をつける。というもの。
老中の命令はさらに慎重なもので、ロシアに限らず、外国の戦争のために申し立てたことを認めては「怨み」もない国に信義を失うので、「恨み」を受けるということを充分に説明し、一般の薪水食料や船の修理のためということであれば、長崎と箱館への入港を許す。やむをえなければ下田を許してもよい。戦争のためという書簡は、書面をとりかえるか、訂正して差出させるように。英文原本は返却せよ、というもの。
ようするに軍事力の見地からは日本はどの列強にも開港の要求は拒否できない、という判断である。しかし、「怨みもない国に信義を失う」ことは避けたわけであり、ようするに等距離外交を意図した訳であり、欧米列強の大戦争という状況下を外交によってわたっているのである。
一八五四年九月にプチャーチンは大坂へ来航、下田へまわり、条約交渉をすすめる。このとき川路は下田のアメリカ船から、ペトロハバロフスクでの英仏とロシアの大合戦でロシア大勝利という情報を入手する。
その日の交渉で筒井らは「条約とりまとめたく存ずる事にそうろう」と妥結を要請。国境問題は、千島列島はエトロフとウルップで区切り、カラフトは界を分かたず」でまとまっていく。
日本はサハリンアイヌの生活範囲を日本領とすることを求めたがロシア側が拒否、ロシアもイギリスと対決するために日本との通商を切望して領土での譲歩もほのめかしたが合意にはいたらず、日本側は「アメリカに認めたほどは認めよう」というところで防戦した。
結局、長崎、下田、箱館の三港開港で、領事裁判権が双務的であったというちがいはあったが、日米和親条約にほぼ準じた条約が一二月下旬に結ばれた。
この後、クリミア戦争の戦況を監視しながら、フランスには前年の日英協約に準じた内容で幕府側から和親条約の締結をせまる。結局欧米列強に対して、どの列強とも一般的な条約を結んで、戦争に巻きこまれることを避け、等距離外交をするという路線を幕府はとった。これは、十九世紀前半にヨーロッパで独立をはたしたギリシャやベルギーをみてわかるように、勢力均衡が小国日本の独立のためには、必要だったからである。
もうひとつは日本への列強の外圧が中国にくらべてかなり弱かった。列強の経済市場としての関心は中国のほうに強く、しかも列強の経済進出に対抗する中国在来産業の抵抗力は強く、イギリスは木綿の売り込みすら成功できず、貿易赤字を増大させたあげくにアヘン戦争にいたる。
さて、この国際情勢に機敏に反応しつつ、等距離外交によって、小国日本の独立を守り通した幕府の対外政策は少しも破綻していないどころか、実によく成功した、といえようかと思います。
後の二点はまた後で。
日付Mon Apr 14 13:00:49 2008
2035
おなまえ
みのだ
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メッセージ
>>>頭がよい幕府官僚は、その影響を漸進的に取り込もうとして出来ず、
>
>いったいどういう事態のことでしょう?
遅いレスポンスです。2週間ほど、東京へ休暇で遊んでいました。
ええ、上記は、阿部正弘や堀田、そして川路・筒井・岩瀬(だったけな)ら
その辺の幕府官僚を想定し、そして事態としては、ロシアのプチャーチンの来航
への対応、さらに、経済としては横浜という一部地域での貿易で影響を小さくし
ようとしたけれど、金銀の交換比率や、木綿・絹糸の流出による国内での原材料
の高騰で、限定策が破綻した、という流れをさしています。
あいにく実家に、元学生部長朝尾センセと、網野善彦さんが編集した通史を
おいていて、詳細は指し示せないのですが、対象とするのは上記が論域です。
高校生のころは、開明幕僚こそ理知的で、攘夷いうとるやつは過激派と思うて、
小栗や横井がかわいそうでしたけれど、薩長のようにしなかれば、ああはなら
なかったと思うようになりました。
もっとも、休戦協定や捕虜の取り扱い、海戦での略奪禁止などの「万国法」は、
戦争ばかりやってきたヨーロッパの特殊事情の論理であって、江戸幕府の平和
な治世(憲法9条のような)を、「半未開国」とする欧米こそ「未開国」であって、できれば、欧米と付き合わずに「鎖国」を続け、独自の箱庭文化で暮らし続けれれば、幸せだったかもしれにないけれど、開国しなくちゃいけないのなら、
どうやって欧米と伍すると言う点では、無茶苦茶な高杉のやり方こそ、あっしは
戦略として面白いと感じますね。高杉だって開国せなならんとわかっていても
敢えて、攘夷を途中の筋道として必要と感じて選択しらわけで、まあ、幕府の
「官僚」と、「政治屋」の役割・発想の違いと言ってしまえば、そうなるかも
しれませんが。
ちょっと、史実を再確認しますわ。
日付Sun Apr 6 21:45:55 2008
2034
おなまえ
micmic
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メッセージ
ちょっと古い記事である。が、いまだに何だかアレコレと気にかかる。
自らのヌード写真をネットに投稿した15歳の少女、性的虐待容疑で逮捕というはなし。
これ自体はなんだかどうでもいいのだが、自分自身に対する虐待というのはありうるのか?
ありうるような気がする。
それは罪でありうるのか?
ありうるような気がする。
それを州政府や国家が裁いていいのか?
どうも釈然としない。
じゃあ、どうしろっての?わからない。なんだか。
日付Fri Apr 4 23:02:42 2008
2033
おなまえ
micmic
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メッセージ
ガソリン屋にいったらリッター127円だった。生活者としてちょっとウレしかったのだけれど、地球市民としてこれでいいのかと複雑な気分。
日付Tue Apr 1 09:50:27 2008
2032
おなまえ
micmic
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メッセージ
この記事が面白い。主題のほうの「Winnyの匿名通信を破」りのほうはどうでもいいのだが、「兵庫県警の現職男性警官」を「福岡県警がパソコンの通信履歴を分析して警官の住所を割り出し、今月上旬に家宅捜索をした」というところがどうにも面白い。
縦割り行政の壁を破って県警がよその県警のモンに手を出したところが実にヨロシイ。
加古川にまで福岡県警に乗り込まれて、現職警官を書類送致された兵庫県警がひそかに遺恨に思い、福岡県警の警官をマーク。些罪で現行犯逮捕なんかしたりしてドロ仕合になったりするとさらに面白いのだが。
ちょっと悪趣味なオレ。ごめんなさい。
日付Wed Mar 26 00:20:01 2008
2031
おなまえ
micmic
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メッセージ
いまひとつどういう事例を指してのことかわからないのですが、
>>頭がよい幕府官僚は、その影響を漸進的に取り込もうとして出来ず、
いったいどういう事態のことでしょう?
>>より促進させようと、ペリーらが日本に着たのに、まだ漸進的に対応しようと
して破綻した
これまたナゾであります。ペリーが日本に来ることのアメリカの目的も、ペリーの来航をあらかじめ準備して待ち受けた日本側の目的もほぼ完全に達成されたのでは?
「破綻」とは結果的に内戦の大規模化を避けた幕府が自らを幕引きしたことでしょうか?
日付Sat Mar 22 22:51:34 2008
2030
おなまえ
みのだ うえる
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メッセージ
>いわゆる鎖国でさえ、世界的な通商、通信システムとの連なりのなかにあり
いえ、情報(西洋事情)と
経済(銀/金の交換比率、木綿、絹など)の影響は、まさしく、情報がさきで、
経済の影響は、後にじわじわと徳川政権下の国内に浸透して、換金経済のいい
もわるいも、その理屈が、士農工商の「士」いがいに展開されてきたのでは。
頭がよい幕府官僚は、その影響を漸進的に取り込もうとして出来ず、しかも、
より促進させようと、ペリーらが日本に着たのに、まだ漸進的に対応しようと
して破綻した、とあっしは見ているのですが。
開明幕府官僚が悪いわけではないが、しかし、彼らの持つフレームワークでは
対応できなくなっていることを、自覚できないのでは、頭がよい官僚としては
もったいないと思います。ビジョンがないのに、地頭がよいとうのは、悲しい
存在ですね。
ない。
日付Sat Mar 22 22:27:47 2008
2029
おなまえ
micmic
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メッセージ
開国の準備をしたのも、実際に開国をし貿易を開始したのも幕府で、開国のための最初の相手として米国を当時の国際情勢から選択したのも幕府というわけなので、
>ひとり「日本」だけが隔離された経済空間
といういいかたは江戸幕府には関連が薄いのではないでしょうか。
いわゆる鎖国でさえ、世界的な通商、通信システムとの連なりのなかにあり、さればこそ、ヨーロッパやアジア諸国の情報をほとんどタイムラグなしに把握していたわけで。
日付Sat Mar 22 22:11:59 2008
2028
おなまえ
みのだ うえる
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メッセージ
>最後のタトエはもっとも具合が悪い。なんとなれば、江戸幕府の絶妙のバラ
>ンス感覚、外交能力の高さは中央公論社 世界の歴史25 アジアと欧米世界に
>も、幕末・維新―シリーズ日本近現代史〈1〉 (岩波新書)にも紹介されています。
>
>これと四ヶ国艦隊との下関での講和での高杉の無責任きわまる態度とを比較する
>らば、どんなものでありましょうか。
ううん、これは、本筋とは少し離れるが、きちんと考え直します。
阿部や小栗をあっしも、一時は「評価」しましたが、しかし、世界が「同時革命」とまでいかなくとも、つながって影響を与え合っているときに、ひとり「日本」だけが隔離された経済空間(朝鮮民主主義人民共和国や、アルバニアもそれを目指したけれど、無理でしたね)の中でノホホンと、していられない中で、その
苛立ちを高杉らが(無茶区茶であっても)、こじ開けようとした、そのことをあ
っしは気持ちがわかりたいと、思っているわけ。
進歩史観の視点から、ルネッサンス以前や、江戸幕府を一方的に遅れていると
は思っていません(ルネッサンスの錬金術や、カルダーノの怪しさはすきだし、江
戸の紫や藍、柿色の文化、箱庭文化は閉鎖された世界での結実だとも、おもう)。
けれど、そういう筆致であるように書いたのは、ごめんなさい。
もすこし、生データを集めます。
日付Sat Mar 22 21:31:32 2008
2027
おなまえ
micmic
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メッセージ
「主流にのっかるのはイヤ。かっこ悪い。けれども、独立独歩自分の道を切り開くだけの才覚も気迫もない。」そんなネジケた性分が私を京都大学に志望させました。まさにその性分が文学部の哲学科を志望させたと思います。
で、京都大の学生にはありがちなことですが、いざ入学してみると、同輩の学生がバカばかりなのに愕然とし、そこで授業を受けるつまらなさに愕然とし、そして自分もまたそんなバカの一員であることに慄然としちゃいました。
この一等賞、一番、トップではありえない。そこで、競争そのものを相対化しようとヒネくれてはみるが、しかし、その序列での上位者としてのプライドも捨てられない。こういうちょいヒネかげんはまあ、そういう人が少くなればなったでまあいいんじゃないでしょうか。
さて、今回この問題と『高校生、大学生が「チャレンジすること」「失敗しそうでも、やってみること」を避けるという事態』とが連動していると考えなければならない根拠はいまのところよくわかりません。
まず、受験に関しては浪人については概ね自分の実力を認知せず、それとかけ離れた志望をするという傾向は近年ますます顕著です。もちろんそういうヤツでないとそもそも浪人しないというのが全入時代なのでありますが。
ただし、大学を職業訓練所と考える傾向は強くなっています。職業につくためのステップなわけです。ただしこれは、帝国大学が官僚養成機関として発足した当初からそうだったわけで、「就職のことはゼータクいわなければなんとかなるだろうし、面白そうな大学へいって面白いことしたい」、と考えた私たちの時代が寧ろ稀有の時代だったような気もします。
しかし、ここらへんは感触というか思い付きの領域であって、ちゃんとした資料の裏付けのあることではないので、ナントも。
最後のタトエはもっとも具合が悪い。なんとなれば、江戸幕府の絶妙のバランス感覚、外交能力の高さは中央公論社 世界の歴史25 アジアと欧米世界にも、幕末・維新―シリーズ日本近現代史〈1〉 (岩波新書)にも紹介されています。
これと四ヶ国艦隊との下関での講和での高杉の無責任きわまる態度とを比較するならば、どんなものでありましょうか。
むしろ、明治政府のように列強の尻尾につこうとするでもなく、冷静に軍事的、経済的、外交的世界情勢と自国の力量を比較して、植民地にもならず、帝国主義国にもならぬ第三の道を模索した幕府のしなやかさ、不断の自己改革能力のほうにちょっと興味がわくところです。
こう書くとちょっと幕府のカタを持ち過ぎのようではありますが、明治政府が自己正当化のために作りあげた守旧的江戸幕府イメージからは脱する必要があろうかと思います。
日付Fri Mar 21 14:40:14 2008
2026
おなまえ
みのだ うえる
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メッセージ
>まあ、京大生的なアンチエリート趣味が多数派になる方が気持ち悪いか
そりゃ気持ち悪いし、それはない。もともと、ローカルな大学で、灯台あっての
兄弟という次男坊精神だから、アンチエリート。多数派や、NO.1なんて無理
無理。むしろ、豊臣秀長の心境でしょう。
京大なんて、ろくでもない学生を9990人、赤軍を9人、ノ−ベル賞級の研
究者を1人育てればよい、という精神こそ、すばらしい。あちきは赤軍ね。
でも、アエラに書いてあった「京大は自由だから不安」とか、「ローカルだから」という理由で、近畿圏の高校生が東大に流れるのは、つまらないとおもう。
はじめから、自分は9990人であるとあきらめて、東大へ行くという発想だもの。兄弟あんて、どうにでもなれと思うけれど、チャレンジ精神が、もしくわ
「おっちょこちょい精神」が失われるのが、イヤですね。
僕らの先輩は、「われわれは、明日のジョーである」といってハイジャックし
たり、関係もないイスラエルで機関銃を乱射したり、そのおっちょこちょい精神
こそが、時代を進めることになったんですけれどね。高杉晋作の功山寺決起だって
同じようなモンでしょう。
いまは、みな、高杉に向かわず、幕府のほうへなびいている、ということが
どれだけ損なことであるか。
日付Thu Mar 20 06:26:39 2008