ayya #1  ペリーを待って半年。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀沖に4隻の黒船が現れた。前日の強い雨が嘘のように晴れ上がった暑い日の午後であった。そのうち二隻は巨大な汽走(蒸気)軍艦のミシシッピー号(1629トン)とサスケハナ号(2450トン)で、当時の世界最大・最先端の艦船であった。黒煙をあげ、風もないのに自在に動く。

浦賀沖での日米の出会い

  浦賀の砲台は沈黙し、ペリー艦隊の大砲も火を噴かなかった。浦賀奉行所の一隻の小舟が二人の役人を乗せて艦隊に近づいた。与力の中島三郎助とオランダ語通詞の堀達之助である。堀が巨大な黒船に向かって大声で言った。"I can speak Dutch!"(「私はオランダ語が話せる」)。英語であった。これなら甲板上の水兵でも誤解せず、発砲事件を避けられる。

  [中央公論社 世界の歴史25 アジアと欧米世界]


  実は、江戸幕府は突然ペリーに来られてうろたえたわけじゃなく、半年も前から開国交渉のためにペリー来航の準備をして待ってたんだそうな。オランダ風説書の威力ですねえ。ヨーロッパ列強の戦争につぐ戦争のことはもとより承知でヤバそうなイギリス、あたりは避けて当時一番安全牌にみえたアメリカを開国交渉の相手に選んだというわけですか。

  で、なんで蒸気軍艦艦隊がわざわざ大西洋をわたって、喜望峰を回って、インド洋も越えてはるばる日本まで来たのかというと、1846年の米墨戦争でペリー提督は蒸気船艦隊の必要性を説いて議会に予算を出させたのに、艦隊ができるまえにあっさり勝ってしまい、艦隊の使いみちが宙に浮いてしまったからだと。おまけにペリーは植物コレクターで鎖国ニッポンには新種の植物があるかもしれないと思ったそうな。

  太平洋をこえなかったのは、新兵器は燃費最悪だったから燃料が保たないからで、 出発から到着まで137日もかかったそうな。そのくせ、たった9日で帰ってしまったのは、食料が無くなったせいだと。

  堀は「あい、きゃん、すぴいく、だっち」というためにいつ来るかわからないペリーを浦賀でくる日もくる日も半年待ちつづけたわけだ。ちょっとウラヤマシい気もする。

 [前へ] [次へ]
[Home] [目次]