1991年クウェート及びペルシア湾岸への影響力を維持したいアメリカは「国際正義」の錦の御旗を振りかざし、圧倒的兵力、技術力でもって終始優勢のうちに軍事行動を遂行した。この間、民間人への大量の被害、および中国大使館への意図的誤爆をふくむ多数の残虐行為に及んだがこれは後まで発表されることなく、「軍事拠点のみをピンポイントで攻撃」というプロパガンダがなされた。
湾岸戦争にふみきる以前アメリカ閣僚には「この戦争を第二のベトナム戦争にしてはならない。」という意志一致がなされたという。無論覇権外交の撤回ではなく、盛りあがった世論も戦死者が出ればたちまち厭戦気分がこれにとって替わるということ、国内に反戦運動が盛りあがったり、徴兵忌避者が続出したりしては戦争が遂行できない、ないしは戦争のデメリットがメリットを上回ってしまうこと、その場合、政府は求心力を失い、経済は停滞するということである。よって、戦争は短期間に圧倒的勝利をおさめてしまうことが肝心であり、その間厭戦気分や反戦運動をひきおこす種類の情報はこれを徹底して統制する。そのため、軍の情報は伝達すべき情報をあらかじめ準備し、取材はこの範囲にとどめ、発表は政府で一貫して管理し積極的に発表する。味方の一方的正義による一方的勝利がお茶の間でテレビ観戦されるというわけである。アメリカ家庭もお茶の間で一家団らんでテレビを見るのかどうかは未確認である。
なんのことはない。旧日本帝国おとくいの大本営発表じゃねえか。おおう、メリケンさんもやっとニッポンに追いついたか、と思った日本オヤジも少なくはない。しかしながら戦争が絶対君主の趣味の領土拡張ゲームから、国民の総力を投入する総力戦の様相を呈するようになってから戦争のためのの世論誘導というのはどこの国でも重要な要件となっていた。これのはじまりは国民国家がようやく出発したフランス革命時に遡る。
新たに宣言された自由・平等・国民国家の理念を広げ(博愛)、おくれた、封建的な国々にその恩恵を与えるべくフランス革命政府は周辺諸国に対し革命戦争を仕掛けていく。それはジロンド派の開戦論者ブリソによれば
「新しい十字軍のときがきた。世界の自由の十字軍だ」
ジャコバン派の実力者ロベスピエルは開戦反対であったが少数派であったという。 フィアン派のラファイエットは開戦によって軍部の発言力が強まることを期待し、一方ジロンド派は開戦によって反革命の根を元から断つことができると考え、国王は外国軍が革命を一掃してくれることを望み、みんなが戦争へとなだれこんでいった。
同じことがロシア革命ではレーニン率いる赤軍のポーランド侵入という形でくり返されることになる。このとき赤軍は労働者、農民の圧倒的歓呼で迎えられるはずが侵略者として撃退されてしまい、レーニンは即時講和の側に傾くことになる。正しい状況判断であるけれど、世界革命が根本にあってのはなしである。どうも革命というやつは周囲に広がろうとする傾向があるようである。その点ではスターリンの一国革命という発想は大発明なのかもしれない。
さてフランス軍は各地で惨敗。しかしこのことが革命が危機に瀕しているという民衆の危機意識を煽り、かえって革命を民衆が支えていくことになる。国内を矛盾を抱えたままに統合するには外敵の創出がてっとり早いということだろうか。そういえばイギリスのフォークランド紛争でもアメリカのグレナダ侵攻でも、おおむね外征はさしあたっては政府の支持率をはねあげるものである。
ナポレオンは1793年のトゥーロンの戦いで戦争デビューするもロベスピエルの弟に近付いていたことがテルミドール反動後問題視され冷やめしを喰っていた。が、イタリア戦線の司令官として大活躍することになる。
このとき、『イタリア方面軍通信』などの前線新聞をきもいりで刊行させ、兵士達に戦線やフランス本国の情報をコントロールしつつ提供して士気を鼓舞。 「将軍は電光のように飛翔し、雷のように打ちたたく。将軍は、あらゆるところにいて、すべてを見通しているのだ」といった調子の記事が戦果と共にさりげなく繰り返され、ナポレオン神話を形成しはじめる。
エジプト遠征には失敗するもフランス本国の窮状を見て、急拠帰国。クーデターでもって政権を獲得するや、革命の終結をくりかえし宣言。動乱はおわり革命の果実をゆっくり味わうときが来た、と。支配層と民衆のミゾは深かったが一貫してその両者の調停者としてふるまう。
1800年ミラノ近郊のマレンゴでオーストリア軍の主力と対峙するも結着はつかない。が、パリには大勝利を急報して「凱旋」。歓呼する群衆によって国民的英雄となる。12月に爆弾による暗殺未遂事件では死者22名負傷者56名が出たがあやうく難を逃れている。この事件は王党派がらみだったことがじきに判明したが、ナポレオンはこれを左派の陰謀として左派活動家の一斉検挙に利用したという。徹底した情報操作とイメージ誘導を実践していく。
このせいかどうか、1805年以降のヨーロッパ制圧ではヘーゲルに「絶対精神」呼ばわりされたとか、被占領地の側で逆に歓迎されたとかいう逸話もある。ナポレオンによるヨーロッパ侵略の大義名分は革命の輸出、すなわち旧体制のくびきを脱し、自由と平等を実現するというものであり、その合言葉は「国民万歳」であった。ところがどっこいその理念が各地でうけとめられたときそれはフランス占領軍からの自己解放ののろしを焚きつけるものとなる。これはスペインのゲリラ戦となりやがてライプニッツの諸国民戦争となってナポレオン自身の命脈を断つこととなった。
けれども以降、戦時体制の構築、戦争の遂行には世論誘導が不可欠となり、情報の管理と統制は戦争そのものの行方に大きく影響を及ぼすこととなる。
参照
『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』五十嵐武士/福井憲彦
『ロシア革命』E.H.カー
2001/09/28