ayya # 082 メロドラマの時代

  SFマガジン2004年1月号はスタニスワフ・レム特集であるが、次のような記述をみつけた。

  『メロドラマ的想像力』の著者ピーター・ブルックスによれば、元来メロドラマは、フランス革命の啓蒙運動により、神中心の中世的な世界観から自然科学に代表される近代的な世界観への移行がなされた時に生まれた。神がすべてを決定するという倫理観が覆された時代、混沌の近代に生きる人間に、道徳という新しい拠りどころ、信念を伝える演劇として生まれたのがメロドラマなのである。

  そうしたメロドラマの根底にあるのは二元論である。メロドラマでは、無垢なヒーロー/ヒロインと卑劣な悪役との間の争いが、道徳的な善悪として明快な形で必ず提示され、道徳的にどっちつかずのキャラクターは存在しない。無垢な者たちの愛とこれを阻む者たちの対立によって、感情の盛り上がりが生じるのが典型的なメロドラマのパターンである。普通、現実の人間は様々な矛盾や複雑さを持つものだが、メロドラマ中の人物は普通、一面的で単純な性格しか与えられず、彼らには悩みも複雑な心理もない。そしてメロドラマでは、登場人物の心理的な変化が物語を進行させるのではない。むしろ、登場人物たちの力の届かない何か超越的な力と偶然とによって物事が勝手に進行していくことが多い。

  ブルックスは、メロドラマを「意味が物事の裏に隠された、過剰に表現主義的なドラマ」と定義する。道徳とか信念とかいったものは、日常の現実的な言葉では容易に表現することが難しい。したがってメロドラマでは、登場人物たちの身体や表情、そして彼らを取り囲むものやデコールが、言葉にできない道徳や信念を誇張するかたちで表現する。つまり、メロドラマにおいては、自然な言葉や現実的な台詞はあまり重要ではない。代わりに、観客は人間の振舞いや彼らを取り巻くもの、それらが生み出すムード、雰囲気に意味を求めることになる。この意味で、言葉にできない表現力を持つ音楽が重要性を帯びてくる。メロドラマとは、メロディードラマ、つまり音楽が表現力をいかんなく発揮するドラマでもあるのだ。例えば『惑星ソラリス』には、ステーションが三十秒ほど無重力になり、主人公とヒロインが抱き合ったまま空中に漂うSF的魅力に満ちた場面がある。ここでは台詞はなく、壁にかかったブリューゲルの画と共にバッハのみが流れ、全編中もっとも感傷的ともいえる場面を盛り上げる。

  レムの怒りは、映画版『惑星ソラリス』が自分の原作を二元論にもとづいた感傷的なドラマに変えてしまったということから生じているようだ。そしてタルコフスキーは、原作『ソラリスの陽のもとに』を道徳的小説と断定し、しかも物語の中で主人公が心理的に変化することはないと主張した。こういう訳で、二人の論争の問題点となっていたのは、惑星ソラリスをめぐる物語がメロドラマであるか否かということだったと考えられるのである。

宮尾大輔『レムの怒り、あるいはタルコフスキーのメロドラマ的想像力』より

  面白いのはメロドラマの定義である。ハリウッド系の映画なんかにときどきあらわれる、あのゼンダマ・アクダマがはっきり固定していてやたら煽情的なカットとBGMで無闇に感傷を誘うアレである。べつにハリウッド映画に限らない、歌舞伎や大河ドラマなんかでもしばしば見えてぼくらを辟易させるあのノリである。あのメロドラマは神なき世界の道徳を決める芝居であったというわけである。

  わたしたちの世代にはテレビアニメで宇宙戦艦ヤマトというのがあって、とりあえず地球=善玉、ガミラス帝国=悪玉で安心してメロドラマを見ていると段々とガミラス側もまた滅亡の危機に喘いでいることがクローズアップされてくる。ついには地球の側がガミラス帝国を滅ぼすにいたり、やっていることは同レベル、自分が生きのびるために他者を滅ぼすというあたりが見えてくるといった趣向であった。

  メロドラマで始めておいて、メロドラマをハミだしてくるにあたり新鮮な驚きがあって大ヒットとなったわけである。ところがどっこいヒットに乗じて出た続編「さらば宇宙戦艦ヤマト」ではしっかりメロドラマに戻っていて、地球=善玉、白色彗星=悪玉の図式を見てガックリということになったわけだが、しかし、メロドラマにかくのごときしぶとさがあり、メロドラマに因らないでは脚本家も脚本が書けなかったのであろう。

  以来ジャパニメーションの世界では単純な善玉・悪玉という図式はものたりない設定ということになり、アレコレと工夫がされることになる。マクロスでは遺伝子工学による戦闘機械として造られ、もはや目的も理由もわからないままに戦争をつづけざるを得ないゼントラーディ人が登場するし、オーガスでは事故から排他的にしか生存できない運命をもってしまったチラム人とエマーン、ムーが登場して自己保存と他者の生存権の間で葛藤する。ガンダムでは理想主義的革命家の思想を実行に移しつつ、独立国を運営していくといつのまにかそこには帝国ができあがってしまったりとまあ、あの手この手の設定を試みてはいる。それでもどこかで主役側がゼンダマ化してしまったりするのである。ものごとを善悪二元論の単純な図式に還元したがる欲求のすさまじさというべきか。

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2003/12/30