autobiography #9 すいかとすずむし。

  子供のころからのスイカ好きでスイカがあるとえんえん食っている。庭に向かってタネをペッペッとやるのである。スイカのタネは茅を出すが、何せ市販のスイカは一代かぎりの三倍体とか四倍体であるから育ちはしない。そうと知っていれば間引き菜がわりに喰って二度幸福にもなれたろうが、バカなガキであるからいつかスイカが育って庭中に蔓をのばし夏ともなれば西瓜が生って食べ放題という野望が捨てられぬ。かくてペッペである。

  冷していただくわけだが、これまた冷やし加減が重要である。アイスやビール同様、冷やし過ぎては味がわからなくなってしまう。しかし、それを逆に利用するという手もある。即ち、どうしようもマズいものの場合にうんと冷すことで味をわからなくして、その代り、舌触りやノドごしで勝負するという方法である。べつに某社の某大ヒットビールに怨恨があるわけでは少ししかないが。これについては『ヌルくなってマズくなるよーなものは元々マズいもンである。』という格言を引用しておこう。閑話休題、温度管理である。こいつの場合は冷蔵庫などもってのほかというしかない。井戸に吊すのが作法といわれているがあいにくウチの井戸は電気汲み上げ方式で蛇口からひねるやつである。そこで代替案として流し台に洗い桶をおき、ここに井戸水をチョロチョロいれつつスイカを投入しておくのである。一見水の無駄使いのようにも見えるがここらへんにこそ、キング オブ フルーツとしての高貴さが込められているのだ。あふれた水は風呂桶でうけておくことにしよう。

  さて、冷えれば、こちらも体調を整え、喰うばかりである。概ね午前中ではいけない。いまだ気温も十分に上りきってはいず、それゆえ体のスイカに向けての欲求が熟し切ってはいないからだ。NHK連続テレビ小説の再放送が終ってもまだである。暑さのピークは午後二時頃と学研の科学にも書いてある。二時をまわり、日射しが少し黄味がかってきた頃をみはからっていただくのである。場所は縁側でなければならない。クーラーのかかった室内などもってのほかである。足をプランプランさせ、庭に向ってペッペッである。まったくの野外というのもよいので次点とする。

  中央あたりの甘いところもまあいいのだが、最も美味なのは周辺の白いあたりである。メロン、冬瓜同様これも瓜であるから当然そのあたりこそが実なのだと信じている。ご挨拶に赤いところを食べきったらさあ本番である。そのまま頂いても赤いところの糖分で甘くなった口蓋のお口直しにいいんであるが塩などパラリとやるというと実に美味である。そんなわたしのためにか兄弟姉妹はそのもっとも美味な部分を残してくれていたりする。御丁寧に白い部分だけ残して、次のピースへと食をすすめてくださっているのである。末っ子のありがたみか、家族のみんな、本当にありがとう。

  かくて、夏休みは過ぎゆき、朝夕に秋の気配を感じはじめる頃、わたくしには強敵が出現する。すずむしくんである。おじさんがくれたとか、ねえちゃんがもらってきたとか何だかわからないうちにいつのまにやら水槽が出現しているのである。こいつには贅沢にも西瓜の最も美味な部分、すなわち白い果肉をやらねばならんのである。いまだにその理由はよくわからないが、その最美味な部分をやらねばならぬとのこと。

  こうして西瓜は鈴虫にとられてしまい、秋も深まるころ鈴虫は勝利の凱歌をあげる。が、所詮はキリギリスの一族、冬とともに零落の宿命にある。たのみのアリくんとて助けてはくれない。かくてその鈴虫もはかなくなる。けれども、もう私のもとにスイカが帰ってくることなないのであった。

  ものおもう、秋は悲しや枯れ双葉。

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2001/08/18