autobiography # 010 激闘、忘年会。

  忘年会シーズンたけなわである。

  いまとなっては焼肉、中華に、イタめし、フラめし、インカ料理に、カレーライス、ソバ、流しソーメン、アボリジニ料理、イヌイト料理となんでもありではあるが、さはさりながらスキヤキ、鍋ものにこそトドメをさす。「御馳走」の金看板を掲げつつ御予算次第でいかようにもセットでき多少の人数変動、小食大食いを問わず、好き嫌いにも強い。

  あまり金持ちではない若いモンが集って宴となるとこれにつきるのである。おおむね魚介および牛肉は高価であるから鷄または豚が花形として起用されることになる。しかしながらうっかりタラチリやカキナベなんぞをやってすっかりトラと化した衆人にトラの子タラやカキをわしづかみで投入されては悲しみは倍増である。

  「違うだろう、違うだろうが、そいつは沸きたつ鍋にごく少量投入して火が通るか通らないかのうちに素早くいただくのだあ」などと抗議しようとアトの祭である。こういうことをするやつに限って自分では魚介など眼中になかったりするのだ。だったら、手を出すんじゃねー。同様に春菊である。あれは10秒が勝負なんだい。30秒たったらもうシニャシニャになっちゃうでしょうが。よせ、よすんだ、鷲掴みで投入するのは。

  さて、ナベモノにはプロトコルというものがある。ここらへんは『カッコいいスキヤキ』(泉昌之、ちくま文庫)に詳しい。ともかくよき人は肉にばかり執着してはならない。肉は、豆腐→椎茸→はるさめ→肉→白菜→葱→春菊→大根などといったローテーションの一角として位置付けられるべきである。しかし、若い者は成長期のカラダがタンパク質を要求するのか、年配者は肉類など年に二度、盆と正月にしか喰えなかった怨恨によるものかエセローテーションの使い手が出現する。

  即ち、豆腐→肉→椎茸→肉→はるさめ→肉→白菜→肉→葱→肉→春菊→肉→大根などである。しかし、これは、「めし←→おかず」の往復運動をくりかえしつつも「おかずローテーション」を行う日々の食生活の反映と見ることも可能かとも思われる。こうなるとなんと主食は肉かい。それじゃ、ヘイ、ボブ、テメエはアメーリカンかい。忘年会のときだけメリケン化しやがって、そのくせ座敷に正座して茶碗片手に箸を構えやがって。おめえなんざクルマの中でマクドナルドかケンタッキーでも喰ってやがれ。

  しかしながら自分だけはこのような俗悪の輩と同レベルに落ちるわけにはいかないと思ってしまうのはこれまた人情である。肉に群らがるヤツラを後目に肉の旨みをたっぷり吸収したハルサメをいただくオレってちょっとシブいぜ。フフフフ。どシロウトめ。

  かくて平和共存、棲分けのうちに会は進行していき、あれほどの絢爛ぶりを誇ったナベも見るカゲもなく凋落している。しかし本当の勝負はここからである。一方でダシを供給しつつも自ら肉・野菜のエキスを集め、かつその体積・面積を増加またその硬度において適当となったコンブさまが控えている。このコンブこそは一鍋にただ一枚の貴重品ながらその実力を正当に評価されることが少いカゲの帝王である。これをいただいてこそナベ通の称号もダテじゃないってものである。この場合シロウトさんは問題ではない。なにせこのキング・オブ・ナベの存在に気づいていないアマちゃんだからである。問題はそれを知っている通である。まさに女の敵は女、国家の敵は国家、ツウの敵ツウであるというべきであろう。国家に真の友人はいないとは荒川茂樹(パトレイバー2)の言葉だが、そのとおりナベツウに真の味方は存在しない。

  彼らは最初からそれを狙ってきている。なにせ一鍋にひとつしかない貴重品だ、失敗はゆるされない。忘年会は年に一回しかない。今年敗北すれば雪辱のチャンスは一年を待たねばならない。かといってあまりにはやく行動を起しては「おい、おい、まだ追加があるんだよ」と諌められてしまう。オトナのコケン台無しである。けれども一瞬の遅れが致命傷となる。この一瞬を狙って今日も全国の料理屋で、居酒屋で、工場の二階で、新聞紙をひいた事務所の床の上で闘いはくりひろげられている。

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 2001/12/9