autobiography # 022 コーヒー後々日譚。

  天罰テキ面というやつであろうか、本日2002年10月12日(土)紀伊国屋にいって、帰りに件の毎日新聞ビル一階、喫茶ウエストに立寄ったところ、キレイさっぱり消えているのである。フロアは片付けられ、看板はとりはずされている。前回いったのは先月であったと思われるから、この一月のうちに閉店、撤退してしまっていたのである。

  仕方がないので24条駅前、喫茶ポレポレでクッキーセットか、ケーキセットでも頂いてと思ったがそちらもその手のメニューをやめてしまい、ほぼ完全な定食屋と化していたのであった。

  ケーキに向って高揚した魂を如何ともしがたく、34条ベスト電器一階フレッシュネスバーガーで、ハンバーガーなど喰い、かつケーキまで喰ったら、著しく味が落ちている。このフレッシュネスバーガーというのは北海道に来てからはじめてみたチェーンショップだが、モスバーガー同様その場で焼いて作るタイプの店でモスバーガーをはるかに凌駕する実力を誇っていた。が、いつのまにやらヘタクソになってやがる。マズいケチャップをドバドバ掛けただけの大味になってしまっていた。あまつさえハンドメイドを自慢するケーキもボソボソのしかも大味なものにばけている。

  背中の後を冷たい風が吹きぬけていくのを感じた。お釈迦さまが入滅してからは弥勒菩薩が一切衆生をお救いになるまでは世界は悪化する一方であるという。まさに世は末法である。いっきに老け込んだような気がした。いっそ死んでしまおうかとも考えてはみるが、「こんな世の中に生まれてきて、というかもしれないけれど、生きている限り幸せになるチャンスはあると思うんです。だって生きているんですもの」とは碇ユイ(新世紀エヴァンゲリオン)の言である。もう少し、生きていればなにかいいこともあるのかもしれない。

  さてわざわざ紀伊国屋まで出かけて買った本は岩波新書『若者の法則』香山リカ著である。べつに近所の本屋でもありそうなものだがタマタマ目があったのだからしょうがない。それによれば、


  ひとつは、彼らにとっては「(他人の)笑いを取る」というのは、日常生活の中でも最重要で最難関の行動と見なされている。「今日は合コンだからなんとか笑いをとらなきゃ」「笑いを取るという点ではあいつにはかなわない」などと話しているのを、よく耳にする。

  だから、何かを見たりだれかに会ったりしたときに、とにかく笑いで反応するというのは、彼らにとっては最高の"おもてなし"なのではないか。それほど面白くないところや場違いなところでも手を叩いて"笑ってあげる"ことにより、「私はあなたに敬意を払っているのですよ」という意思を表現しているのだ。ひと昔まえは、水を打ったようにシーンとなって講演を聞くのが話者への敬意を表現する行為だったとしたら、今は「大笑いする」がそれなのだ。


  なんだ私も同じじゃないか。いや、愛想笑いはそれほど大笑いということはないが。あんまり簡単に大笑いし過ぎては向こうもやりにくかろうとは思うのだが。しかし、とりあえずウケをとってナンボというのはそうである。これはコミュニケーションの基本ではある。シーンとなんかされたら地底の底まで落ち込んでしまうに違いない。


  …などと過剰に、しかし何気なくほめ合って、お互いの自己肯定感が薄れないように気をつけ合っている。相手のちょっとしたファッションや持ちものにほめるべき点を見つける彼らの感覚には、驚かされる。

  ところが、そう毎日毎日、だれかがほめてくれるわけではない。まして、会社に勤めたり主婦になったりすると、ほめてもらえる場面などはほとんどなくなってしまう。そのときに、自分で自分をほめる能力がそなわってない人の場合、「とにかくだれかにいいね、すごいね。と言ってもらいたい」とあせりを感じ、ついデパートやブティックへ…となりがちなのだ。


  たしかにわたしも褒められるのは大好きである。褒められたからといって次にいい仕事ができるってわけではないのだが。それでも、なんだかうれしいのだけは確かである。目が高いといってもらったからという理由で毎月ついついいってしまう魚屋があり、ついつい大量に生ワカメを買ってしまってはいる。そんなわけで味噌汁のネタは毎回ワカメで、とりあえず生ワカメの二杯酢はほぼ毎日喰っているのだった。ところが毎日喰っても消費に二週間を要しているのである。因に一回あたりの購入代金は500円である。おまけに調子のってホッケだ、ニシンだ、モズクだ、シャケだとついでに買ってしまうのである。

  もう一軒ついつい通ってしまう八百屋がある。札幌でも郊外にあたるこのあたりでは市場はなく、スーパーマーケットが全盛であり、実際そのほうが便利なことが多くなっている。ところが近所に週に二回だけ開業している「青空市」というのがあり、市という名称だが実際のところただの八百屋であり、ついでに果物、乾物が少々置いてある。といったところである。ディスプレイ技術に劣るので、葉物はなんとなく萎びてみえたりするのだが、ところが店の婆あがバナナをくれるのである。「はいこれ、二人で食べてちょうだい」などとフィリピンバナナを毎回毎回くれるのである。これはうれしい。すっかりサルのように餌付けされていそいそと通うのであった。

  というわけでわたくしもまたイマドキの若者であると判明してしまったようである。と思ったら、


  ところが今は、その上の世代の大人たちが「自分で自分の人生を自由に決められる時代」の特典をフル活用しすぎて、いつまでも考えたり立ち止まったり、無分別に人生をやり直したりし続けている。それもまたその人の自由なのであるが(中略)

  フラフラするなら自分の責任で。そして、下の世代の邪魔をしない。これが大人の最低条件だ。それをクリアしている人は、世の中の何割だろうか。案外、どの世代にも同じような割合でしかいないような気もする。小学校にも一割の大人、政治の世界にも一割の大人、といった具合だ。


  というわけで香山センセイのお叱りを頂戴してしまったような気もするのであった。ううんネバーランドはここ現代ニッポンにこそあるのだよ。すいません。

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2002/10/12