autobiography # 029 炊飯器と便利製品とローテク技術

  ある日のことである。仕事先から晩飯を喰うべく帰宅したところ、飯が炊けていなかった。炊飯器のタイマをかけ忘れたらしい。わたしは青ざめた。少々ヤクザな仕事についているので、朝は御飯をつくってお弁当をヨメはんにもたせ、買物、料理などをし、午後になってから仕事にいき、夕方五時過ぎにいったん帰って晩飯を喰い、六時前にべつの仕事場にいき深夜にかえるという行動パターンを示すことが多い。いきおい料理品目は冷蔵庫にから出してすぐ喰える常備菜のたぐいと温め直しのラクな煮物に極端に偏ることになる。しかし、わたしのヨメはんというひとは自慢するわけだがデキた人物なので文句もいわず、うまいうまいと喰っている。全く感謝にたえない。

  ところがオオボケをこいたわたしの前にはあわれ、水に沈んだ米があるばかりである。おかずはよい。お味噌汁を温めなおし、冷蔵庫のフタつき碗をとりだせば済むことである。問題はめしである。わたしのうちの炊飯器は根性がなく、炊飯開始から完了まで50分ほどかかる。これでは炊けたころはもう出発後である。困ったときのパスタとか困ったときのうどんという手はあって、とりあえずこの手の乾麺は常備してある。湯を沸かせば、6分か7分で充分喰える。しかし、不幸は重なる。切らしている。ウカツといってあまりにウカツである。ここのところ仕事が立てこんでついつい、などと弁解してもはじまらない。さあどうする。

  答は簡単であった。鍋で炊けばよいのである。わたしは固いめの好みであるから、1合や2合くらいなら、10分ほどで炊ける。さっさと炊けば充分めしも喰える。ちょっと底のほうが焦げたし、焦げのついた鍋を流し台に置きっぱなしだけれど、とりあえずことなきを得た。

  こんな簡単なことをまるで思いつかずに飯といえば炊飯器と短絡的に考えていたのであった。とりあえず、鍋での米の炊きかたを教えてくれた小学校の家庭科には感謝である。ここ数年来、年に一度キャンプで飯盒炊飯していたのがこんなところで役にたった。

  しかし、最近キャンプ場で米を研いでいるとおばさんに水加減を聞かれることが多くなっている。微妙な水加減ではない。米一合に水一合というそういうおおざっぱなはなしである。なれ親しんだ道具でないとわからないということはそれはそれであるけれども、おそらく彼女たちもいつもの炊飯器でないとわからないのであろう。あるいは、炊飯器の内釜のラインがないとダメなのだろうか。キャンプ場で電気炊飯器を利用しているゴウの者もいたりして。

  もちろん炊飯器は悪くない。非常に便利であるし、有能である。同様に洗濯機も悪くないし、真空掃除器もよい。けれども、これらの便利な機械ばかりつかっているうちにそれらのものがなくても炊飯も洗濯も掃除もできるということを忘れてしまい、それと同時にそうする技術が失なわれてしまうような気がする。

  先日文房具店にいったところ「マスターペーパー」という商品名の輪転機の原稿用紙を買おうとしたところなくなってしまっていた。原稿を書こうとしたわけではなくて、コピー原稿のレイアウトに使おうとしたのである。それ用のレイアウト用紙というのも市販されているが使い勝手が悪い。枡目が大きく切り過ぎのうえに端がきちんと合っていない。用紙サイズにあわせたガードもない、といった体たらくである。そんなわけで、マスターペーパーを愛用していたようなわけである。輪転機自身がいまではコピー原稿をスキャンして原紙をつくり、印刷する機構になっているから、レイアウト用紙ではなしはあっているのだが、いざ、必要に応じてレイアウトしたり手書文字を加えようとするとどうも具合が悪いのである。

  ここらへんの事情はおそらく、ワープロで原稿を作ることが多くなっていて、しかし、全部をワープロでつくるほどには活用できておらず、ある程度パーツを打ち出してレイアウト用紙に並べこれをコピーして原稿を製作するといったところであろう。まさに私のやろうとしたことである。で必要に応じて手書で加筆するわけである。

  しかし、ここらへんの技術も全てをコンピュータで操作するほうが多くなってきているから、消えていくのかもしれない。

  さてヨメハンが会社の同僚から電子レンジを貰ってきた。わたしの実家にもこのマシンはあるのだが、冷飯の加熱以外に使った記憶がない。そんなわけで20年ばかり疎遠になっていたマシンである。いまどきは『きょうの料理』にさえ、電子レンジクッキングがのるようになった。使いこなす技術を身につければ、この道具もまた必需品になっていくのだろう。そしてそのかわり何かの技術を失なってしまうのだろう。

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2003/5/31