ayya #19 完全な理解

  ヒトはヒトのことを完全に理解することは不可能である、のだそうである。

  「お茶」

  わたしの同居人である女の人(仮称"M"としよう)がいった。私はうっかりと完全な理解をしてしまった。すなわち、この人は私にコーヒーもしくは紅茶、はたまた番茶を淹れることを期待している。それはさらにカップあるいは湯飲みに150ccほど注がれ、「はい」「ほりゃ」等々の台詞と共に手渡されることも期待されている。私はこの任務を遂行することによって、歓心を買うことが可能であり、または拒絶ないしサボータージュによって顰蹙をも買うことが可能である。

  しかしだ。さきほどのテーゼから考慮してみる。今日まで、百万遍そうであったからといって、そのことが今回も適用できるとドーシていえようか。いま、ここ、固定化され凍り付いてしまった過去と未だ不定の霧の中にその姿を隠された未来とが微妙なバランスを保ちつつ接している一点、常に「いま」が「いま」でなくなりつづけているこの殺那に、そうしてそんな「いま、ここ」に投げ出された実存たる私に、そんな経験知がなんの役に立とうか。

  実は「おちゃヶ」ではあるまいか。お銚子の一本でも出すべきところへ番茶など出そうものなら、それは甚だしい敵意の表出になってしまいかねない。まさに「ぶぶ漬けでもどうどすえ」状況ということが出来るであろう。だいいち、この文には述語がない。

  「お茶は緑色だ。」これこそが真意ではないのか。愚かな思い込みに従ってお茶でも淹れようものなら、「何やってんの?」の嘲笑を浴びるだけではないのか。いや待て、なぜ主語だと断定したのだろう?これは「私ってお茶目さん?」という疑問文の短縮形ではあるまいか、ここはひとつ「ウン、さうだねえ」などと微笑のひとつも浮かべることこそ私に課せられた責務ではないのか。いやいや待て、「感情こそ全て。言葉は消えゆく空音のみ」とゲーテはいった。言葉のような不完全なもので繊細きわまる人間の真実が表現されよう筈もない。この「お茶」こそは言葉になり得ぬ魂の慟哭ではないのか。その実相のまえではヒトはただ呆然とこれを受け入れるほか術持たぬのではあるまいか。

  そのときである。

  「お茶、お茶なの。」

  連呼である。この連呼は如何ように解するのが妥当であろうか。「ハイは一回。」という。ただ一度だけの「ハイ」は、単なる了承、それだけではない。相手に対する誠意である。相手の依頼を受け入れ、これに応える敬意である。いまこのときただ一度だけ同じ時間を共有できた喜び。そこには一期一会の凄味があるといっても過言ではあるまい。しかしそんな「ハイ」ですら連呼されるとき様相は一変する。それは軽視、侮蔑、疎外、あなたのことなどどうだって構いはしないという宣言へと変貌してしまう。してみるとこの連呼はもうお茶なんかどうだっていいそういう主張ではないのか。いやいやそうとは限らない。例えば、

 
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  どうであろうか、ここには整然と区画された茶畑が彷彿とはされまいか。青々としげる若木や、絣のモンペの娘たちの明るい笑い声までもが目に浮かびはしないか。これこそが彼女の言わんとするもの、つたえたいものであったのではないか。

  またまたそのときである。脳天に激しい衝撃を感じた。どうと倒れゆく肉体と薄れゆく意識の中で次の言葉が響いた。

  「もう、いいもん。」

  そうして去りゆく後ろ姿。やはり拒絶である。期せずしてもう一つの真理を体得した。

  ヒトは結局ひとりである。

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