ayya # 058 おじいさんの時計の怪(2)

  もつべきものは友である。わたしは『ねこのねごと』のほとんどインスト・カントリージャズセッションに近いバージョンばかり聞いていたため、Bメロ、2番の存在に気がついていなかったのである。

  さてBメロは部分は

百年休まずにチクタク、チクタク。
おじいさんといっしょに、チクタク、チクタク。 いまは、もう、動かない、おじいさんの時計。

  なるほど、チャプリンのモダンタイムズもかくやというべき労働機械というかんじがする。ここらへんの分析はあっさり敗北を認めざる得まい。あわれな時計はなんどかきっと止ったが無理矢理でも何でも動かされつづけたに違いない。

  すこしく昔の俗説にイギリス人やドイツ人、アメリカ人は国民性として時間に几帳面だが、イタリア人やスペイン人は時間にルーズだというのがあり、この後半部分は黒人になったり、アジア人になったり、オセアニア人になったりするのである。ところがどっこい当のイギリスやドイツにも前近代には聖月曜日ブルーマンデイという風習があり、ようするに日曜日にバカほど酔っぱらった職人さんたちは月曜日には二日酔いで、ぜんぜん出勤せず、したところで使いものにならず、実質的に週休二日制といったはなしがあり、まあこれについてはもうすこしキチンとした制度であったというはなしもあるのだが(『世界の歴史25 アジアと欧米世界』および阿部謹也『中世の星の下で』を参照されたし。)

  前近代的な職人さんについては勤勉というてんばかりが強調されがちだが、こういうルーズさは結構普遍的である。micmicの実家の建具屋では職人さんが興が乗れば深夜の2時、3時まで仕事をして近所から騒音の苦情を頂戴したり、給料が出れば3日でも一週間でも全然出勤せずにカネが尽きたころに出てくるとかいうことがままあった。べつにうちだけでなく取引先あたりでもよくきくはなしであった。西鶴噺や明治あたりの落語でもそういう困った職人さんというのは結構ポピュラーであるから、それがそれなりに説得力をもつだけの了解があったのだろう。まあ、堅実な職人さんの存在を否定するわけではないが。親方というのはこういう気まぐれな職人さんをナダメすかしてなんとか商売をきりまわしていたのである。ちなみにお母ちゃん(同建具店経理担当者)によれば「納期というもんができてからどうもいい仕事ができなくなった。」そうである。時代に順応できてるんだか、できてないんだか。

  ようするに産業革命による時給制の工場が登場するまではどこの国でもあまり正確な時間とその厳守は、物理的に不可能であり、それゆえ意味がなかった。天文研究所でもないかぎり、朝方とか昼頃とかお日さまの加減で生活していたのである。それゆえ、時間にルーズな国民性とは時間にやかましい組織や制度が発足してからの歴史が浅く定着度が低いということにほかならない。したがって、相対的「後進地域」は必然的に時間にルーズなのであった。というわけで百年前に既に時計と共に生きていたおじいさんは実にモダンなのであった。そのことが幸福か不幸かはまた別問題である。

  そして二番である。

真夜中にベルが鳴った、おじいさんの時計。
お別れの時が来たのを、皆に教えたのさ。
天国へ登るおじいさん、時計ともお別れ。
いまは、もう、動かないおじいさんの時計。

  件のNHKの特集番組によれば、この時計怪異譚は何か所かにあるのだそうである。時計-時間支配の特殊機械には異界への口が開いているようである。そういえば、『くるみ割り人形』でも異界への通路は時計の歯車の森であった。おじいさんは時計の異界への迷宮に迷いこむことでついに時計の現世の呪縛から逃れたのである。そのとき時計も現世での存在意義を失ったのである。産業革命と同資本主義の申し子の悲惨な末路である。糸繰機に巻きとられた哀れな女を彷彿させるといえる。

  さておまたせ(誰も待ってないか。)今回のマシンはおじいさんの呪い造成機である。 以下のフォームに適当な呪文をいれてほしい。おじいさんにさまざまな呪いがかかるようになっている。


呪文


準備はいいですね


これまでの呪文一覧

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2002/9/30