autobiography # 033 君たち女の子、僕たち男の子、ヘヘヘイ。

 
大学のころ女解放研究会というのがあって、教養部で自主ゼミなど開いていた。おりからフェミニズムブームにのっかって、あれよあれよという間に単位の出るゼミになっちゃったりするのだけれど、それは後のこととてまだ数人の学生が空教室でちょろちょろといったところである。おさそいをいただいたので寄せてもらうこととなった。

  そこで、『なぜ、女だけが「女の子」といったいわれかたをするのか』といった主題でおはなしをしたことがあった。10代やそれ以下では「男の子」「女の子」であるけれども、20を過ぎ、成人した後までも「子」扱いである、というわけである。たしかに女の人を「女・子供」と看倣し、半人前あつかいするというのは当時よくあるはなしで、それを不当とする言説もまたよくあるはなしではあった。

  その週のゼミでこの主題で問題提起してくださったのは某私立大学の夜間部に通う女子大生のかたで、彼女は昼間は某オフィスで雑用事務などしつつ夜間大学に通っていたものだから、はなしには勢い実話の強味があったのである。ようするに彼女自身が職場でまさに「ちょっと女の子にお茶を淹れてもらう|コピーをとってもらう」といった仕事をしていたわけである。

  ところが困ったことにわたしは「それは若いひとは、お年を召したかたからは男の子/女の子と見えるのは当然ではなかろうか」と発言してしまったのである。実はわたしの実家の建具屋では「ちょっと男の子を迎えにやりますから、そこでお待ちください」などという電話はわりと普通であった。ここで男の子と呼ばれる従業員は40代半ばであったりする。電話をかけているのは建具店の会計処理を一手にひきうけている、唯一の事務員にして社長夫人である。そこで、その旨説明したところお怒りを頂戴してしまった。「それはアンタのとこだけだよ。」ところが、わたしが父の手伝いなんかで運送屋にいっても製材所にいってもオバサンにかかると自分より若いのは「男の子」なのであった。かくて五十代の「男の子」がそこにはゾロゾロいるのであった。

  のみならず、うっかり、京都の取り引き先の先代の御夫人にお茶など御馳走になるというと「あああ、庄造かい。あの子もいい子だったのにねえ。まだまだ若かったのにねえ。男の子は逝くときにはすぐに逝ってしまうもんだねえ」ここで男の子と呼ばれたのはわたしの祖父で享年74歳であった。

  かくのごとく、おばあちゃんにかかれば、みんな男の子である。 それどころか、神余のひとであろうが、役小角であろうが、親鸞上人であろうが、「あああ、あのひとにも困ったとこがあってねええ」てな調子である。神様も歴史的人物も裏の御隠居さんも等距離におはなしになる。おばあちゃん恐るべしといっても過言ではない。

  さてここまで言って判明したのだが、彼女の職場にはおばあちゃんがいなかったのである。職場からおばあちゃんが排除されている、そのことこそが最大の問題であったのだった。


補足。

この文に対し、これは現実にある職場での女の子扱いによる差別を歴史的、社会的な流れのなかでできた社会制度で、ないしはその残骸であるからと正当化する、あるいは差別者に逃げ口上を与えるものではないか(まとめたのはmicmic。)、という批判を頂戴した。 正確な批判内容とmicmicの回答はこちら

この文を書いたときから、こういうモノイイがつくのを期待していたものだから、とてもうれしかったです。批判をくれた小麦さんにはここで改めて御礼をいいます、ありがとう。

最初のあたりは遠慮があってなかなかイイタイことがでてこないのでちょっとあれですが中盤以降に鋭い指摘がでてきます。DVとピンク映画のはなしが出てますが、これはこちらの『ヴァイブレータ』のスレッドこちらの『件の映画を見てみないと』のスレッドです

さて、わたしmicmicは差別の問題というのは結局のところ個人や心の問題ではなくて、制度やしくみの問題だと考えています。ひとのこころはタブラ・ラサではないけれども制度と習慣のなかで価値観が形成され、現状がそれを固定するというふうに。であるから、たとえばセクハラは簡単に告発されるべきだと考えています。それはセクハラを行った本人を罰っするためという以上にセクハラというのはうっかりやれば告発されて責任を追及されるものである、という制度と慣習ができることのほうが重要だと考えています。もちろんザル法じゃ効果がないから、きっちり処罰されなければならないのですが。

ただ、こうなると刑事処分は本人の社会復帰と社会の秩序維持のために必要なのだという立場がくずれて「みせしめ」のための処分という発想になってしまっているので問題は残るのですが。

さて上記の文にもどりますと、おばちゃん、おばあちゃんを排除してできた近代的な企業はまさにその排除のゆえにきわめてイビツな怪物となっていることを指摘してはいるけれども、そのことはそこで働くひとのそのイビツさゆえの女性差別をすこしも正当化はしない。むしろ、そんなイビツなところにいるのだから、そのぶん余計に配慮した行動をとる責任を生んでいるということを強調します。

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2004/01/04