autobiography # 036 恐怖の読書感想文

「本文の要旨をどうやってまとめればいいんでしょうか。」

  いつの間にかそういう質問をもらう立場になってしまっている。しょうがないので、

「各段落の要旨をまとめてだなぁ、そいつをとりあえずならべるのだ。」

  でもって主張と実例にわけて、必要に応じて例のほうをケズるというわけだ。もっと要約するなら、証明部分もサチって、結論だけにしちゃうわけだ。

  しかし、こういう芸当が可能なのはもとの文章がカタめでそれらが段落ごとにわかれているから可能なのだった。「柔らかめ」といわれる文章になればなるほど、ほとんど無秩序にちりばめられているので、ナニがいいたいことなのか、そんなものが本当にあるのかアヤしくなっていくのである。

  さて、

「それでは、段落の要旨はどうやってまとめればいいのでしょうか」

  という質問を頂戴することになる。

「その段落の主旨をだなあ、主語一つ、述語一つでいうのだ。いいかいアレもコレもと欲張ってはダメだよ。『hogehogeはfunifuniする』って具合にひとことでいうのだよ。」

  でも、自分でまとめようとするときにはしっかりアレもコレもと欲張ったあげくに破綻するのだった。それに段落の主旨を一つに絞るまっとうな文章ばかりあるわけでもないのだった。

「ではその主旨はどうやってとればよいのでしょう。」

  「ううん、その一文が何をいいたいのか誰かに説明してやる場合に『結局、××ということだよ』といってみる」

  …………そもそもそれができないから質問にきているのだった。

  さて、わたしはそういう練習をいったいいつどこでやったのかを考えてみるとどうも読書感想文のような気がする。そこでヨメハンに聞いてみたところ彼女もそうだという。

  小学校では特定の課題図書を読書をさせられ、しかもそのあと読書感想文というやつを書かされるのだ。わたしはこいつが苦手でいつもいつもあらすじを書いてしまうのだった。

  こんなことがあって、それからこんなことがあって、それからこんなことがあって、こんなことがあって、それからこんなことがあって、結局こうなる。とまあ、ダメ感想文をいつもいつも書いてしまう。いつもいつも先生に「それは感想文じゃなくてあらすじだよ」と叱られるのである。そんなこと云ったっていきなり素直に「ポリーおばさんも大変だなあと思いました。初老のひとり身でクソガキを二人もかかえて、しかもそいつを世間さまに恥ずかしくない立派なゼントルマンにしようというのだから、その苦労はナミではなかろうと思いました。」などと書こうものなら、ポリーおばさんって誰だよ。クソガキ二人っていったいどういう関係のひとだよ、ということになろうとわたしなりに配慮したのである。そんなわけで本論にはいるまえに前提条件である物語世界の解説にはいるのだが、いつもそこで紙面が尽きてしまうのだった。

  実は課題図書なわけであるから先生はすでに作品を読解済みという前提で書いてもよかったのであるけれど、それならそうと先に言ってくれればよいものを。第一こちらも読者が誰であるか、先生ひとりが対象なのか、親もそうなのかクラス全員もそうなのか、感想文コンクールの素人審査員も射程なのかちゃんと指定してくれたタメシがない。

  ところがまさにその最低の感想文こそがわたしの現代の国語能力のほとんどを形成していると思われるのである。

  マニュアルから必要な使用方法をひきだすしかた、市の広報からゴミのしわけかたを読みとること、ニュースから情報を聞きとること。これ全て、要約あるいはあらすじを書き出すという作業そのものなのであった。それが現実にどの程度できているかはさておきようするに取得する情報に濃淡、重要度、必要度、をランクわけし、瑣末な情報を捨てるという操作がまさにこれである。

  個性的ないしは恣意的に感心あるいは感動することではなくて、そこに何が書いてあるのかを周囲の人間や操作する機械との矛盾を最小限に読みとること。もっといえば大切なのは自分の心のなかから湧きでてくる何かではなくて、外から与えられる情報だということ。そのことを外からつまり先生からの要求である『読書感想』のひねりだしに失敗しつづけることで身につけたといったわけなのだった。

  世間の人間のどれほどが同じ道を歩いたのかは未確認だが、結構な数がいるにちがいない。きっとそうに違いない。

  きょうのまとめ。失敗は成功のもと。がべつに成功というほどのことでもない。

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2004/6/1