はげましのお声、ないしは罵詈雑言ありあり版

御芳名


おことば

準備はいいですね


915

おなまえ
micmic
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メッセージ
そうでございました。腐敗せる、という敬称つきでありました。純粋で、ためらいがちで、透明感のある、傷つきやすい、うつむきがちな、腐敗が自慢でありました。もっといっぱい形容があったんだけどもさすがに忘れてしまいました。ミフジくん、やりすぎだよ君なんて噺でした。

腐海の底には清浄な湖があるの。


日付Sun Feb 29 20:54:18 2004

914

おなまえ
とだおっとせい
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メッセージ
中さんから「評論家集団」というお言葉を頂戴した若き日々もありましたね。
内輪ネタですまん。

日付Sun Feb 29 12:33:53 2004

913

おなまえ
micmic
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メッセージ
あちらこちらのサイトで評論家というものはエラく叩かれている。ま、ぼくらが子どものころからどうも評論家というやつはやたらとボロクソにけなされるのである。どういうわけか、評論それ自体が創作活動、文芸活動であるということを認知してもらえないようである。

ああ、小林秀雄、あなたが文学に高めたはずの評論はあっちこっちでケチョンケチョンだ。文学に高めたのが失敗だね。エンタテインメントにするべきだったのだね。充分エンタテインメントしているような気もするんだが。
ボヤキ漫才という名前にしておけばよかったか。



日付Sat Feb 28 23:17:30 2004

912

おなまえ
micmic
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メッセージ
結局ぶつぶついいながら大河『新撰組』をみている。脚本の三谷幸喜というのはテレビ/舞台ではみたことがないが、『ラジオの時間』『みんなの家』はおもしろかったのでファンである。
ところが、小ネタはいいんだが、主筋のほうがどうもただのメロドラマみたいである。ううむ。武士よりは農民や町民を描くほうがおもしろいだろうが、武士もどきの農民では悲哀がさきにたっちゃうなあ。びしっと百姓でいこうよお。でも農学者なんかもおもしろそう。宮崎安貞とか。武士を棄てるとこが初期のクライマックスで。
ところで従来の大河ドラマよりナレーションがとても少なくなっているのだが、これがよくいわれるリアリズム演劇の陥穽というやつで、状況を説明するためのセリフが必要となってしまい、しかもこれが会話でなされるものだから、その視聴者のためのセリフを聞かねばならん相手方まで必要になってしまっている。素直に「説明しよう」とかやりゃあいいものを。
ここらへん書き物だとモロに言葉がつかえて便利である。もっともそういう説明を徹底的に嫌う書き方もまああるんだが。


日付Sat Feb 28 17:56:35 2004

911

おなまえ
micmic
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メッセージ
大市民を見て思ったんだが、ドラマには見るべき旬というものがあるのかもしれない。
これを放映当時に見て面白かっただろうか。いまから見るとものすごく興味深い、生活風俗、会社世界/専業主婦世界/子ども世界である。もちろんドラマとして描かれている以上そうであった、という以上にそういうイメージであったというわけではあるんだが。
これによりてこれを見るに、1980年代の放映当時にはうるさいわ、わけのわからんことで登場人物がムキになるわ、生活風景に魅力がないわでほとんど見る気を魅かなかったトレンディードラマとよばれた一群のドラマ「男女七人ナントカ」とかそういうのも、あと10年くらいしてからみてみると面白いのかもしれない。




日付Thu Feb 26 11:45:08 2004

910

おなまえ
micmic
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メッセージ
口語自由詩といわれるようなジャンルは、いまも長老谷川俊太郎が健在だし、連綿と続いてはいるんだが、何となく発足まもない大正〜昭和初年あたりに巨人たちがそそりたってみえる。やっぱし何だかカッコイイわい。

実際のところ彼らはだいたい朗読が好きな人が多かったみたいではあるけれど、おれら、ここらへんはついつい目で読んでしまう。とはいえ、出版され、目で読まれる詩の嚆矢といえばいえんでもなさそうだ。(厳密には違うけれども。)

1980年代には現代最大の詩人は中島みゆきである、という説がたったがそういうこともあろうな。趣味からいえば、友部正人のほうが断然好みではあるんだが、たしかに圧倒的普及率ではあった。やっぱし、現代詩人は歌わにゃなるまいよ。

人見さんが古本屋で『山之口貘詩集 鮪に鰯』を買ってきた。没後40年でまだちょっと早いけれど、いっちょう電子化してみっかと思う今日このごろ。


日付Wed Feb 25 10:30:09 2004

909

おなまえ
とだおっとせい
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メッセージ
若干のおまけを付けて明日発送するです。
こういう詩ってもうあまり読まれないのだろうね。もったいない。
昔、高校の図書室で日が暮れるまで、
山之口貘とか金子光晴とか八木重吉とか萩原朔太郎とか中原中也とか
伊良子清白とか島崎藤村とか室生犀星とか北原白秋とか
草野心平とか立原道造とか宮沢賢治とか中野重治とか
詩集を何冊もぼけーっと眺めていたもんだが、
そのころからしてそんな高校生は圧倒的少数派だったからなあ。

日付Wed Feb 25 02:19:41 2004

908

おなまえ
micmic
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メッセージ
これはこれはどうもありがとうございます。
うれしいなあ。ぼくは高田渡は市営図書館で借りたねこのねごとが最初だから、山之口貘/高田のは、『石』が初体験で。

季節、季節が素通りする。
くるかと思ってみていると、
くるかのように見せかけながら、
ぼくがいるかわりにというように街角には誰もいない。

なんだか、厳しいじゃないか。
ところで山之口本人の朗読がかっこいいのでNHK出版が朗読CDでも出さないかと期待しているのは人見さんでした。




日付Tue Feb 24 09:45:48 2004

907

おなまえ
とだおっとせい
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メッセージ
> 三倍モードで良ければ進呈しよう

それは忝ない。ありがたく頂戴致します。
お礼に
『詩人・山之口貘をうたう』(高田渡・佐渡山豊・大工哲広他)
『日本に来た外国詩…』(高田渡)
を準備中です。

日付Mon Feb 23 22:17:11 2004

906

おなまえ
micmic
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メッセージ
でもよくわかりました。バカだなあ押井監督。「わたしの描きたい人間を描くには」とか「わたしが人間を描くには」とか前ふりをつけておけばいいものを。
彼の胡蝶の夢シリーズというのはようするに酒の席のバカ噺を壮大に増幅したものだから、その範囲で面白がっておけばいいものを。しかし、大風呂敷を拡げたほうがバカさ加減が際だつということか。
ひきこもり、ってのは実写畑のひとが実写だけでアニメはやらないとか、アニメの監督がアニメだけで実写はやらないとか、詩のひとで書くこと専門で朗読や絶叫、歌いはやらないとかそういうことね。
ひとには得意な表現方法ってもんがあるんだから気にしなきゃいいのにね。アニメは長らく実写と比べて格下と見られることが多かったからかなあ。


日付Sun Feb 22 22:30:30 2004

905

おなまえ
micmic
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メッセージ
でもわたしごときエエカゲンな人間のセリフを信用するものではない。現代劇というだけで格落ちといったけれども、NHKアーカイブで40年前のホームドラマ『大市民』をせっせと見てしまいました。いやあ、千里ニュータウンとか多摩ニュータウンとかできたばっかりなのよ。団地の暮しのプロトコルが成立しかかっている時期で、さ、消費者保護法ができるまえで押売、訪問販売を恐れて、ビクビクしたりして。結局トイレットペーパを千個も押しつけられて右往左往したりして。おもしろかったあ。

日付Sun Feb 22 22:12:00 2004

904

おなまえ
micmic
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メッセージ
ううむ。最近の映画というの全然見てないらしい。
「ひきこもりの男と女が出会って、暴力的な体験を経てちょっとだけ自分を好きになりました」
このパターンに該当する映画を見た覚えがないなあ。
う、エヴァンゲリオンかな、「ひきこもりの少年とひきこもりの母とひきこもりの父とが再会したら世界が滅びました。ちゃんちゃん。」だもんな。さすが95年。はや9年か。


日付Sun Feb 22 21:31:24 2004

903

おなまえ
micmic
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メッセージ
人間の内面ねえ。novelですなあ、それは押井はどっちかっちゅうとtaleのひとだから外面の観察はともかく内面に肉迫ってのは専門外なかんじがするなあ。ともかくイノセントは見てないからわかんない。さらにいうと最近の日本映画ってのもあんまり見てないんでどうも。ラジオの時間にみんなの家、花火横からみるか…………。岩井俊二は妙に感傷的な部分以外はよいんだが。といってスワローテイルまでだなあ。
うーむ、ここらへんは好みの問題なんだろうけれど、わたしは人間の内面はどっちでもいいなあ。面白いのは外面あるいは生態のほうだわ。だから、基本的にはコスプレのほうがいい。道具とか町の風景とかキチンとつくってくれればそれだけですごく盛り上りますね。社会設定なり、状況設定なり、時代考証なりで感心するネタがあるわけだから。そこのところ現代の現代劇はそれだけで一つ格下だから、そのぶん面白い光景なり、テールなりつくってもらわにゃ納得できない。
あはは、やっぱり文学は苦手なのね、わたしたち。
こころの湯で楽しかったのは消えていく北京の生活と、風呂屋の風景。山の郵便配達は山の生活。変面は船で暮らす芸人の生活風景なんだよね。内面が関係するとしたらその地域の習慣や常識、信仰とのからみだから、劇映画でなくっても全然かまわなかったりして。みたいのは生活の形式ですねえ。


日付Sun Feb 22 21:00:48 2004

902

おなまえ
小麦
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メッセージ
いえいえ、単に会見の時にご本人が気にしておられたのですよ。「人間を描くのに人間を使うのは重すぎる。不可能だ」とコメントした後に、「こういうと実写畑の人から猛攻撃を食いそうですが」ときっちり自分で言っていたので、「あ、この人って、なんだかんだ言って、実写もつくってても、自分はアニメの人だという気持ちが強いんだなあ」と思い、かつ、私は実写畑の人なのかどうかわからんが、たぶん押井さんが予想したとおりに、そのコメントにむしょーに腹が立ってきてさー。
 ヨーロッパや韓国の映画監督が描ける「人間の内面」がなんで、日本映画には描けないんだよー。なんか、最近の日本映画って、デジタル、特撮技術にばっかりおぼれて、ドラマ部分では「ひきこもりの男と女が出会って、暴力的な体験を経てちょっとだけ自分を好きになりました」みたいなのばっかりじゃん。そーじゃなけりゃ、近未来アニメか時代劇という、いわばコスプレもの。
 この映画状況を見るにつけ、なぜなんだ〜〜〜という思いを抑えることができないのです。日本人には、もはや人間を描く力が残っていないのではと思わされたり。イ・チャンドンやキム・ギドク、ポン・ジュノにあって、坂本順治や井筒和幸や押井守には、ないもの。それが人間を描く力なのか…。うーん、認めたくないよお。という私は結構な、映画国粋主義者なのであります。



日付Sun Feb 22 20:07:43 2004

901

おなまえ
micmic
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メッセージ
えっへん。昼にてるてる家族を見ていたら、予告編があってついつい。三倍モードで良ければ進呈しよう。90分にわたる大作である。
これである。
わたしが最後にライブで高田渡を見たのは扇町ミュージアムスクェアだったか拾得だったか天王寺だったかもはや思いだせぬ。まだ髪は黒々していたが、動作が緩慢であった。番組によればその後深酒はヤメて、今はほどほどだというが。本邦初公開高田渡私邸、および蔵書、およびなじみの立飲み屋である。ファン必見といえよう。なお山之口貘本人の肉声つき、朗読つきである。


日付Sun Feb 22 08:22:51 2004

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