はげましのお声、ないしは罵詈雑言ありあり版

御芳名


おことば

準備はいいですね


885

おなまえ
小麦
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メッセージ
補足すれば、小倉千加子センセによると、こうやって「私はかわいい女になる」「カマトトになるわ」とわざわざ宣言する時点で、女として「負け犬」。宣言や決意なくして、平気でカマトトな女は人生の早い時期で決定されているそうです。
ちなみに、同級生の「30代後半、未婚、子なし=負け犬」の人たちと話していて、どの時点で、女の生き方が規定されるかについての結論は、「小学校で分数の授業が理解できたかどうか」「中学校入学時にセブンティーンを読んでいたかどうか」「いやいや、それより、『なかよし』より『りぼん』を愛読したかどうか」「『なかよし』はまだいいでしょう。『花とゆめ』が負け犬の原点だよ」「『ザ・ベストテン』を毎週見ていたのは勝ち犬じゃないの?」などなど、あんまり集約されてないですね。

日付Tue Jan 20 00:24:36 2004

884

おなまえ
micmic
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メッセージ
あ、開き直りましたね。オジサンかなわないなあ。まいっちゃった。
とはいうものの、小理屈をウダウダこねくりまわすより、感動的な生き様を示すことのほうが説得力があるのは事実ではございます。「××のいうことなら信用できる」というやつね。
くう、しまったガキの頃に中島敦の山月記だの芥川だの読んだものだから「こころの奥底から沸き上がってくる声」というやつをまるで信用しないクセがついちまったい。
大島弓子といわれて綿の国星しか思いだせず、そうか押し入れでバイトするおじょうさんは子猫ちゃんだったのかとわけのわからない納得をしたのは秘密です。(赤面)


日付Mon Jan 19 11:25:33 2004

883

おなまえ
小麦
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メッセージ
綿矢もそうだけど、金原もなあ。身も蓋もないですよ。

>今更素朴な訴えにまわろうとするとなーんかカマトトぶってる感じがして
いや、だから、芥川賞の2人を見ればわかるじゃない?
カマトトほど強いものはこの世にないのよ。
私は、照れを捨ててカマトトに走る。
だって、楽なんだもーん。



日付Sun Jan 18 18:58:27 2004

882

おなまえ
micmic
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メッセージ
そのころ隣で『蹴りたい背中』がみあたらなくて『インストール』を読んだ人見さんの感想
「これは、大島弓子だな。それを身も蓋もなくしたやつ。」
ナンノコトヤラ。


日付Sat Jan 17 23:31:24 2004

881

おなまえ
micmic
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メッセージ
バカの壁。読まずにケチをつけるのもアレなので三省堂の売り物持込OKの喫茶コーナーで読んだ。ますますテキトーなものいいをする人になっているのな、このひと。それはまあいいけど、喫茶のコーヒーとワッフルのほうが本よりはるかに高かった。こんどからはもうちょっと高い本を読もうと思うのでした。

日付Sat Jan 17 22:26:27 2004

880

おなまえ
micmic
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メッセージ
あ、イタイところをつきますね。そうなんだよな。ときどきカッコのいいことなんか考えてはみるけれど、タカのしれた小市民なわたしです。(一気にトーンダウン)
けれどもみんながみんな24時間闘えるワケじゃない。立派なひとは立派に、そうじゃないひとはそれなりにってことで、ぼちぼちいきましょか。


日付Fri Jan 16 00:28:55 2004

879

おなまえ
とだおっとせい
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メッセージ
俺だって怒りや悲しみを感じることはもちろんあるけれど、俺の日々の生活を放り出してまでその感情を表現するほどに怒ったり悲しんだりはしない、できない、ということは自覚しておきたいと思うのです。時折、イスラエル総領事館に漬け物石を放り込んでフロントドアのガラスを破壊したい衝動にかられるのですが、子供を保育園に迎えに行く時間が来ればそれまでです。もちろん一般論としてではなく、俺の能力・才能の限界を言っています。俺は結局、日本赤軍コマンドにはなれなかった、と。

では、コマンドになれない程度の怒りや悲しみでは何もできないかというとそうではなく、情報を受け取ったりときには人に話したり、ほんの少しお金を出したり、ということはできるわけで。

昔、中核派の諸君に「三里塚農民の闘いに君はどうこたえるんだよ!」とよく問いつめられて困ったけれども、今なら胸こそ張らないが、答えられるだろう。「どうにもこたえられないよ。でもビラは読むし話も聞くよ」と。

日付Thu Jan 15 23:59:40 2004

878

おなまえ
micmic
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メッセージ
ついでにこれも独り言のうち。
わたしは宝島社の「まれにみるバカ女」にイラだっている。わたしは敬愛する上野千鶴子先生がヤリダマにあがっているとか、SFマガジンで毎号連載を楽しみにしている香山先生が非難されているとか、NHK日曜討論会でもっともちゃんと資料を揃えて、明晰に語っていた辻本元議員が攻撃されているとか、そういうことではない。たとえば、山形某の「社会現象に心理学ふうの名前をつけて憂うばかりで何らの提言もない」という香山批判はまちがってはいない。ただわたしは彼女のコラムに提言なんか期待しちゃいないが。
そうじゃなく、個々の先生がたには不十分なところもあり、誤りもあるだろうし、批判があるのは当然だろうが、そういう政治家も学者も多いだろうになぜ「女」という軸で集めるんだ?ここに古式ゆかしい「女のくせにエラそうに」という男のネタミ根性がチラチラするようで気色悪い。
腹が立つので買って読んで、記事のひとつひとつのダメなところを探して論難したい衝動にかられるのだが、しかしこの本を買って売上に貢献するのも業腹である。
さらに『バカの壁』である。自分のバカさを自慢するのは卑怯者の基本であるのでこれは許す。わたしもトクイだ。養老先生に関しては『唯脳論』はアヤしいところも多いが、(だって遺伝子と脳とを同レベルで比較したりしたんだよ。)それなりに面白かったのでよい。が、だ。ひとさまのことをバカ呼ばわりするのは、すくなくともフォーマルなところでそういう態度をとるのはみっともないことだったはずじゃないか。わたしだってついつい他人様のことをバカだと思うこともあるが、実際のところバカにしてしまうこともあるが、それはそのあと恥いること夥しい所業である。恥じるところなく他人様をバカよばわりして、まるで痛快なことであるかのような雰囲気がイヤイヤイヤン。
そして、わたしの勘にさわるのが結局首相の小泉氏である。氏は野党議員はいうに及ばず、与党や自党議員すらバカあつかいである。それがいい大人が公衆の面前ですることか、ああ業腹業腹業腹業腹。


……ちょっとスッキリした。読まされて不快になったかたすいません。


日付Thu Jan 15 12:44:24 2004

877

おなまえ
micmic
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メッセージ
「嵐」の件はカンベンしていただきたい。ここは結局、誰かに喋りたいけれど喋る機会のないはなしの置き場所でもあるのです。学生時代ならビラかなんかにして配布してしまったんですけどね。

日付Thu Jan 15 11:53:36 2004

876

おなまえ
micmic
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メッセージ
召還してしまいました。ご足労ありがとうございます。
立場にあったやりかたというものはあるだろうとは思うのです。そりゃ、糾弾もまた、人から人へのメッセージである以上やり方の巧拙は必然的にあって、胸を打つものいいというのはあります。西光万吉の宣言とからいてうの「原始女性は」とか、高校の歴史史料で読まされてもジーンとしちゃったりしてね。ただ、糾弾される側が「へただからダメなんだよ。」というのはどうもね。だったら、あんたが上手にやってみせなさいってはなしになる。ここで、「イヤぼくは被差別者の側じゃないから、聞くだけです」ってのは無しでしょ。差別の側にたっちゃったものとしてできることいえることをしなさいってことになる。
実際、支配・差別の側はメディアをもっていたり、喋る技術をもってたり、伝える技術をもってたりするから、それなりの意義はあると思うのです。
アイヌのくらしぶり、現状を伝えた松浦武四郎には彼なりの限界もあるけど意義もある。倭人の侵略の実態をきっちり残しているものね。知里幸恵が神謡集を残せたのは金田一京助の尽力あってのことではある。金田一翁は翁なりに問題もいろいろあるけれども。

ただピーターブルックスによれば、現代人の倫理観念をささえるのはメロドラマであるから、映画テレビドラマこそがもっとも上手なアッピールなのかもしれない。でも、たいがい啓蒙映画とか啓蒙番組ってハズレなんだよな。

困ったことに伝えるための技術にあんまりとらわれすぎて、受け入れやすいように受け入れやすいようにと努力しすぎると本来伝えるべきだったメッセージのほうが変質しちゃったりするんだよな。やっぱり人にものを伝えるのは難しいや。



日付Thu Jan 15 11:29:28 2004

875

おなまえ
とだおっとせい
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メッセージ
> そこでそうそうって思っているアナタ。

呼ばれちゃったので出てきました。

なんちゅうか、怒りや悲しみが変革の原動力であるというのはまさにその通りなのだけど、寄せ場労働者でもなくハンセン病患者でもなく、女性でもない俺としてはその怒りの主体になることはできないわけで(前二者に関しては将来的な可能性はなくもないけれど)、そうなると俺がやることはなくなっちまう、せいぜい、怒りの当事者の前に、それこそ「頭を垂れる」しかなくなってしまい、それでいいんかいなという気はしますね。

そういう「被差別・被抑圧の当事者ではないが、何とかその立場に立ち、状況を好転させたい」と願っているつもりの俺としては、いろいろ言葉や理屈や譬喩を使いこなして、出来うる範囲内で(俺なら予備校の生徒さんとか)、啓蒙活動をしたいと思ってはおります。例えば、ハンセン病患者の怒りを伝えることはできなくても、『もののけ姫』に出てくる病者がハンセン病患者であることを指摘し、忍性が建てた北山十八間戸がハンセン病患者施療施設であり(教科書には「病者救済」としか書いていない)、かつては仏教が救済対象としなかったハンセン病患者に、鎌倉仏教の僧侶たちや旧仏教の革新者たちが積極的に手を差し伸べたことを話すと、意外に反応があったりします。宮崎アニメファンの中の何人かは、そこでハンセン病患者が日本の近代において(あるいは中世において)どのような位置に置かれ、どのような扱いを受けてきたかに「出会う」ことができ、初めてハンセン病を「我がもの」と感じることが出来るのでしょう。怒り/悲しみの当事者たりえない俺ができることは、そういう役割だと思っております。

そこから先、彼らがハンセン病患者差別を含む、この世の差別・抑圧構造にどのように挑むのか、または挑まないのかは、俺の力の及ぶところではありません。しかし、俺がそうやって話したことや、それでほんの少しでも何かを考えた生徒さんがいたことや、そういったものの集積全体が、事態を少しずつ改善させていくのだろうと思っております。もちろんその先頭に立つのが「純粋な怒り」で武装した当事者やその伴走者であることを否定はしません。

日付Thu Jan 15 00:33:56 2004

874

おなまえ
micmic
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メッセージ
個人の自己のとらえかえしとかそういう自覚に信頼をおかないのはさ、たとえば「誰とはいわないけれども、本人は自分の良心に恥じるところがあるはずだ」系のものいいは必ず誤爆するじゃないよ。
反省してほしいやつは絶対反省なんかしなくて、その必要のないやつに限ってショックをうけたりしてさ。名指しで「おめえだおめえ、」ってやらないとゼッタイ意図は通じないってのがネットがぼくらに教えてくれたことだと思うわけ。

>そこでそうそうって思っているアナタ。


日付Wed Jan 14 17:42:21 2004

873

おなまえ
micmic
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メッセージ
でも昔も「情」か「理」かってなはなしがあるとついつい、「そういうステキじゃない二者択一はゴメンだあ」とか言っちゃう。そうすると理のほうからは、中立ぶって情の味方をするやつと追及され、情のほうからはそっくりそのまま逆にいわれ、あわれコウモリ野郎はフクロ叩きにあうのだった。
たとえば、

ロゴスは男性原理だから、それにのっかってモノ言うことがそのまま男性側の見方での発想になって云々なんてはなしがあって、「をいをい」それは「はなしことば」はゲルマン語だけど「かきことば」はラテン語で、同様に文章語はフランス語で日常語はプロヴァンス語だったりして、ロゴスとはラテン語ないしは標準フランス語をつかえるというほどの意味合いだったりする文化背景での言明だろうがよ。
そもそも識字率が低いうえに女子識字率の極端に低い文化背景と文芸登場の初期から女流文学なんか当然のようにあっておとこもじである漢文は片隅においやられ、おんなもじが標準文化として普及しているのとは事情が違うでしょうに。もちろん、日本でも明治以来欧米型の強烈なジェンダーロールを輸入しているから影響はあろうがね。しかし、ここで安易に男〓理論派/女〓感情派みたいな二分法にのせられちゃったらそれこそ強烈なジェンダーロールってもんでしょうが。

ってなはなしなんかしたりすると自然的な感情を第一原理にするひとからも、理知的なアプローチをするひとからも攻撃をうけるのでした。

でもおもしろいのはこの手の情・理二元論がでるとそれが民族問題であれ、労働者対資本家であれ、はたまた人種問題であれ、かならずや支配側〓理/被支配側〓情という図式になるのでした。そりゃそうだ、理屈をこねるにゃ、訓練がいる。そうしたトレーニングは支配側は独占したがるものね。ついでに支配側は自分の情を隠したがるもんである。

てなわけでわたしは心情・理論両方を兼ね備えるのがただしい人の道だと思うのでした。二者択一は断乎拒否ね。



日付Wed Jan 14 17:25:31 2004

872

おなまえ
micmic
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メッセージ
そーお?わたしはこのてのはなしが身の回りであんまり聞かなくなるわ、本屋にはまれにみるバカ女なんてな本が並ぶわ、うちの寮の子はおれらのころよりよっぽど強烈な昭和ふうジェンダーロール意識が強烈だわ、リブやフェミニズムばやりのうったえたものがはやくも後退してるんだわ。少くともうちの近所は。単に大学のまわりとそうでない場所のちがいかもしれないが。
原動力に関してはわたしも悲しみだったり、怒りだったり、死体だったりすると思います。ぼくの耳元には「(この冬を)生き残ってもしょうもない命やけどなあ」といったおっちゃんの声とが翌朝冷たくなってた風景が残っています。
差別は差別する側には当然の慣習で、そのおぞましい部分は見ないですますものだから、糾弾や告発がなければそこに問題があることすらわかりはしない。
ただ激しい怒りはその怒りの背景・事情を理解するものに強烈な波及力をもつけれども、わからないひとには単にコワいひとだったりする。北川さんがアイヌに自治区をよこしなさい、と糾弾するときその主張は彼らを抑圧してきたぼくらの歴史を厳しく糾弾するけれども、歴史を知らないひとには極論ばかりするヘンクツなおばさんにしかみえなかったりする。
分析とかそういうのは「有効な方法」となる「可能性」があるだけ。困ったことに「ゴマカシ」となる可能性もあったりする。と考えておりまする。

オマケ。おれら、うっかり大学教育なんか、うけちゃったじゃないよ。とりあえず「論理的にものをいう」とかそういう種類の「トレーニング」やってませんとはいえないじゃない。いまさら、素朴なうったえにまわろうとするとなーんかカマトトぶってるかんじがしたりして。





日付Wed Jan 14 08:38:38 2004

871

おなまえ
小麦
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メッセージ
あー、別に補足するほどのことでもなかったのでは?これじゃまるで「嵐」みたいじゃないか(って、そうかもしれないですけど)。
昔っから、そうじゃないかと思っていたけど、社会変革の原動力をどの辺に求めるか、でmicmicは歴史認識とか社会分析に走るのかな、と。
私は、バカだから、そういうものよりは、より直接的な怒りの集積が、革命やら糾弾→状況改善の原動力となりうる、と思うのよ。しかし、これには、ものすごい危険もつきまといますが(詳述しなくても、わかるでしょ)。
(閑話休題)
今日もハンセン病国賠訴訟の原告の一人、千葉龍夫さんの葬儀に行って来たんだけど、あの方たちの糾弾の前ではすべての人が頭を垂れるしかないわけです。当事者の純粋な怒りだけが、ものごとを前に進めることの典型を見た、って感じだったな。もちろん、私だって、弱い一個人ですから、なるべくなら「差別者である」という属性から解放されたい、と思いますがね。でも、純粋な怒りの声を前にすると、居直れなくなりますよ。それでも居直る人が、社会の構成員の半数以上を占めるから、「逆差別」だのなんだの言う人のごり押しが通ってしまうだけでね。糾弾者の資質ややり方に原因があるという説もありますが、やっぱり私はその説を採るのはいやだな、と改めて認識した次第。

日付Tue Jan 13 23:48:23 2004

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