ayya #6  金襴緞子の帯締めながら

花嫁衣装
〈生活‐婚儀・葬儀・歳事〉

豪華な小袖の上に華麗な金銀の縫い取りの打ち掛け、頭は高島田に角隠し。最近 では、この装いで神前の誓いを済ませて披露宴にのぞみ、色直しにはウエディン グ・ドレスといった花嫁姿が多くなった。

しかし、昭和前期(戦前)までは上流階級から中流まで、花嫁は裾模様のある黒 の留め袖か、黒の振り袖、もしくは色振り袖を着るのがきまりであった。昭和前 期までは社会に身分階級の意識があり、それなりの階級表示(ステイタス・シン ボル)もあった。従ってそれに応じて、ふさわしい装いをするのが社会一般の習 いであった。明治中期までは、貴族といえる階層の人たちだけが、白むくの小袖 に白の打ち掛けを羽織り、髪はおすべらかし(下げ髪)にして式にのぞんだ。

マナーの本場、英国上流社会のきまりでは、花嫁衣装は白一色でハイネック。首 を隠し、袖は長袖が基本で、夏場の半袖か三分袖の場合でも、肘までの長い白手 袋で腕の素肌を隠すのが原則だった。

布地は純潔を象徴する白か、時には淡灰白色を使う。ピンクやライトブルーなど の色ものの衣装は、再婚者に限られていた。床まで裾がとどくのは、ドレスとい わずに「ウエディング・ガウン」という。また、真珠のネックレスは一連に限る。 再(三)婚者の場合のみ、二連(三連)に巻く。

     [知恵蔵1997]


  金襴緞子の帯締めながら花嫁御寮は何故泣くのだろうとはいうものの、花嫁衣裳にも時代による変遷がある。この数十年は一大変革期であったようである。しかしまた、嫁入り婚は明治までは武家の風習であるに過ぎず、商家の女系相続、農漁村での妻問婚など諸制度が並立していたようであり、この場合彼女たちには泣く理由がない。人生の晴れ舞台は結婚などではなく、これからなのだから。

  また高嶋侃『三行半の研究』によれば、江戸時代というのは離婚率再婚率とも著しく高く、それぞれ50%、80%をこえていたようである。有名な三行半の「当方勝手につき云々…」の一文は「こっちの都合で離縁するので、この人は全然悪くないです。」くらいにうけとめるのが正しく、これは協議離婚、なんとなれば、三行半はその受取状とセットになって効力をもつ双方の再婚許可書であるから、らしい。離縁状もしくはその受取状なしに再婚すれば男女とも重婚罪で入牢となる。では縁切り寺はというと、その離縁を巡るトラブルの調停をしていたとのこと。これは当時の夫婦別財産制度、および絹や木綿の糸繰り、布作りが女子労働力を必要としたために現金収入はむしろ女性側にあったことが背景となっているそうだ。

  なお男にも欲しい縁切り寺というはなしはあって、「昼間から餅18切れ喰うは、煙草はふかすは、酒は飲むは、とてもうちの経済力では養えないが、決っして離縁には応じてくれない」といって村方役人に泣きついた男の記録があるそうだ。

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