「風林火山」の旗指物は御存知武田のシンボルで、孫武だか"そんぴん"だかのパクリだそうな。ところが家康公の旗指物は「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」なんと浄土経である。まあ宗教的情熱に燃えて突進する雑兵というのは最もおそろしいものではある。
けれども家康公の場合、桶狭間の敗戦で三河にもどったあと三河一向一揆においまわされ、家臣団の半分に寝返られ、限りなく降伏にちかい和睦である。一揆の指導者で元鷹匠の本多正信は以降、筆頭家老におさまっている。
してみれば、このとき以降徳川武士団そのものが一向一揆だったわけで、織田の弱兵にたいし、野戦に強い徳川兵というのは死をも恐れぬ一揆のパワーということになる。
将軍や徳川家が親政をとらず専ら家臣団の合議を旨とする徳川幕藩体制の原点はここにある。といいたいところだが、戦国大名は多かれ少かれ諸豪族の寄り合い所帯で、信長・秀吉のような独裁中央集権体制のほうがむしろ異常である。それゆえ個人の抜群の能力によってしかそれを維持できなかった。合議制の伝統からいえば、室町幕府の細川や山名のように大きな封土と軍事力を背景にしたもの同士の合議から、そうではないもの(例えば井伊や酒井)の合議にうつったあたりが面白い。それは官僚制ではあるのだが、なにやら土くさい。
とはいえ、家康公が喰ったものは天下餅よりは革命の果実ということになる。座りしままとはいえないが。
註)「年寄・目付」の一文は削除しました。Thanks to kimito