常呂遺跡はサロマ湖にほど近く、湖岸には遺跡センターがある。ここには、縄文、続縄文、擦文時代の竪穴住居あとがあり、相当数が復元されている。柱になる木や屋根となる萱や芦が近くにもう無いため、旭川や屈斜路湖あたりから調達したとのこと。8月ながら森へはいると涼しいというよりは肌寒いが、うれしいことに大きなものには火がいれてある。その炉べりには蚊取線香が渦巻いている。線香のない竪穴住居もあり、こちらは蚊の巣窟と化している。大小さまざまだが概ね、四角い。そのうち擦文時代のものの最大のもの、を覗くとなかから声がする。
「おはいりなさい。」
ギクとするのはどうも人のうちを覗いていたところをとがめられたようで。声の主はセンターの職員さんで、彼があちこちの竪穴住居にいちいち火を入れていた由。なかは広く本間15畳ほどはあろうか、中央の囲炉裏のほか入口付近には竃がある。周囲には丸太が敷いてある。当時板をつくるのは難しかったため恐らく丸太を敷いたと思われ、その痕跡があるとのこと。入口は長い通路になっていて、恐らく二重扉だったろうという。結構快適そうで、多分、明治初年あたりの木造建築物、(京風に風通しよく格好よく作ってはいるが気候に適ってない)よりは住みよさそうである。何分地下住居なので水掃けが気になるところだがどうなのだろう。しかし、煙の吹抜けはあってもやっぱり煙たい。なるたけ、床近くに平たくなっているのがよいそうだ。
北海道は内地が弥生、古墳と時代が下っても縄文人が住み続け、続縄文時代、擦文時代と進み13世紀頃になって恐らくははるか南方起源のアイヌ文化へとつづく。けれど、ここいらは、それと並行してナゾのオホーツク人の居住地である。このオホーツク人は海の民で、回転式離頭銛といってその名の如く、銛の頭部が獲物につきささって回転し、柄から離れるというものを使って海獣を取った模様。ただし、交易の民でもあり、はるか沿海州からシベリアまで交易圏を持っていたらしい。日本海が縄文人にも、アイヌにも内海だったように、彼らもまたオホーツクの海を渡って活動したという。センターには、出土した石や骨の飾りものが各種あるけれどよくは判らない。海獣の骨を実に細かく細工してある。ただし土器は擦文という名のとおり、なにか鋭利なものでひっかいたような線がはいっている。
一方モヨロ貝塚のほうは、網走の町外れ海のちかくの小高い丘の上、といってもちょっと坂をあがったところにある。地図でそうといわれなければ判らないような小さな二階建の記念館がある。館内は地下につづいていて、発掘現場の一部を固めてある。向いの森は発掘現場でいまは公園となっているけれどどこか洋式旧家のお庭に紛れこんだようである。竪穴住居あとがいくつもあるけれど、それは直径5,6m深さ2,3mの窪地で、ただすり鉢状である。これがそれといわれなければ、素人目には判りそうもない。 中央におりてみると、たしかに穴である。ボールの底であるわけだが、なんだか奥底に嵌りこんだようで心地良い。しかし、蚊はいる。縄文人はなんらかの仕方で蚊を燻したはずだが。ああそうか、だから萱で蓋をして中央の炉でよもぎか菊かなんかいい草でいぶしたのか。縄文人てケムたいものなのね。