ayya #16 夜這いと若衆

  この間NHKでドラマ「菜の花の沖」があり、映像そのものが鮮烈になるほどセットのチャチさが目立つものかと感心したが、それ以上に印象的な光景があった。

  娘の寝室へ夜這いに来た嘉兵衛に隣の部屋で怒りに手を震わせながら銛を握りしめ、ひたすら娘が助けを求めるのを待つ父親の姿である。結局娘は嘉兵衛が好きだったからそのまま結ばれてしまい、父はガックリするのである。あわれな父親はしかし、現場に踏みこんで闖入者を撃退するわけにはいかないのである。

  この背景には昭和30年代くらいであらかた滅びてしまった夜這いと若衆組の習俗がある。夜這いは近畿から九州にかけての南方系の習俗で、年頃の娘をもつ家庭は若衆が夜這いに来るのでうちに鍵をかけてはならず、台所には夜に来る若衆のためにおひつに一膳の飯を残しておかなければならない。お供物のようなものである。当然、婚前性交渉は普通で妊娠も普通。もてる娘の場合は複数の若衆が通ってくるので父親がはっきりしないケースもあるわけだが、この場合父親の指名権は娘にあり、若衆には拒否権がない。本当に自分の子(遺伝的に)かどうかは問題とされない。ここらへんは我が国の性風俗が開放的といわれる所以であるが、このほか、子宝に恵まれぬ御婦人が子宝で有名な寺社の薄暗いお堂で神仏に祈ってお籠りなどしていると裏から若衆が入ってきて、子宝を実際に授かってしまうというケースもよくあったらしい。この場合は当然神・仏の子である。古事記なんかにはよくあるやつである、ただ神=若衆は蛇に化けたり、矢に化けたりするけれど。はなしを夜這いに戻すと家庭のほうはうっかり鍵などかけて若衆組のいかりを買ったが最後いつなんどき仕返しをされるかわからない。大人は村長も世話役もその意味で若衆組に逆らえないのである。その意味で若衆組は荒らぶる神そのものなのである。一方、村の共同作業や祭は若衆組がもっぱらこれを支える。やっぱり神である。実に厄介なシロモノである。

  若衆組には15歳くらいになった子供はその村に生活するかぎり入会し、結婚するか、30歳くらいまで組に属する。そして、この間若衆宿で共同生活をおくる。いっぽう女子は地方によって、娘組を形成する場合もあれば、親元にとどまる場合もある。例の番組は後者のケースであった。若衆組のメンバーはその共同生活によって、肉親よりも組に対し強い紐帯をきずく。そして、この紐帯によって村の秩序とは別の、出身家によらない相互に平等な関係が作られ、またそこでは外部の権力の侵入は実力で排除され、自治がなされる。それゆえ、時として暴発し、反政府暴動となる。司馬遼太郎氏は『街道をゆく 熊野・古座街道』で薩摩の私学校をその例としてあげている。

  わたしは、かつて紛争の根拠地となった学寮にその残骸を感じている。マルクス主義でなくてもよいし、左翼である必要もなく、しかし反体制である必要はあって、既成秩序に疑問符をつきつけるところがなければアイデンティティが怪しくなる。このことを卑小なことだとは思わないし、手放しでよいともいえないけれど。どこかワルでなけりゃ存在価値がない。あそこで吹き荒れていたのは若衆だったのか。

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