時は1560年、桶狭間付近へと進軍する今川軍は2万5千とも4万ともいわれる。これを討つべく織田信長、全軍に出陣を命ずるや自らは単身那古屋城を出て先行。熱田神宮に戦勝祈願をして全軍の到着を待ち、遅れて駆けつけた全軍に神託の下ったことを告げた。
こらこらちょっと待ちなさい。ノブナガ君。あんた無神論者でしょうが。それが戦勝祈願はするは、神託は貰うは、いってることとやってることが違うでしょうが。といっても合理主義者かつ御都合主義者の信長は使えるものは何でも利用するやつで、今川の大軍に対する兵の恐れを緩和し、逃亡を防ぐにはこの程度の芝居は平気でやるヤツなのであった。逆にいえば、全軍の統率をとるため、やらざるをえない訳である。自らの正当性、大義名分、求心力を備えるのに将軍、室町殿の権威を借りることのできなくなった戦国大名は神仏の権威を借りたり、それゆえ天皇の権威を借りたりする必要があった。そのため神社仏閣に対する寄進、および朝廷への官位、官職の申請とそのための寄進が増加する。足利義満の時代に風前の灯と化した天皇が戦国期には儀礼的象徴的存在として実用的価値を高めていったのであった。
後に畿内で圧倒的な優位を占めていた信長も浅井・朝倉、将軍義昭、武田信玄、本願寺の反信長包囲網にあうや弱気になり、天皇の命令を借りて和睦にこぎつけ、時間稼ぎをしている。そうして準備が整うや、戦闘再開、また形成不利となるや勅命を貰って和睦、時間稼ぎをしてまた戦闘再開。これを繰り返している。朝廷の権威の現実的利用には余念が無い。朝廷の側も大勢力を迂闊に敵に回しては自身の存続の危機を招くので追討綸旨こそ与えないが和睦調停はホイホイ引き受ける。勝ったほうには先勝祝も忘れない。こうして信長と朝廷の二人三脚はつづいていったのである。双方ハラの底ではダイキライであったろうが。
さて天皇に諸々の寄進をし、右大臣にまで昇りつめた信長だが、その後は朝廷の依頼を固辞して無官である。宣教師フロイスによれば安土城に 見寺[そうけんじ]を建立して全国の寺宝・御神体をあつめ、これらの宝の力を使って自ら現人神になろうとしたらしい。
フロイス自身の記録するところによればつぎのようであった。
当日本の大国に於て、遠方より望む者に喜悦と満足を与えうる安土城の山に、全日本の領主信長は此(この)寺院を建立し、 見寺Soquenjiと名付けた。之(これ)を尊崇する者の受くべき功徳と利益は次の如し。
第一に、富者(ふうしゃ)此所(このところ)に来りて尊崇すれば、益(ますます)富を集め、下賎にして憫(あわれ)なる貧者此所に来りて尊崇すれば、此寺院に来りたる功徳に依って富者となるべく、子女及び後継者なき者家系を続くる為に来れば、直(ただち)に子孫を得、寿を長じ、平和と安楽を得べし。
第二、生命は延びて八十歳に至り、疾病は直に癒え、希望健康及び平安を得べし。毎月予(信長)が誕生の日を聖日とし、此寺院へ来(きた)るべし。之を信ずる者は必ず彼に約束する所のものを得べく、之を信じざる邪悪の人は現世に於いても亡ぶるに至るべし。故に諸人皆完全に崇敬するを要す。
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前に述べたる如く、信長は政治を始めて以来常に神仏の崇拝を意としなかったが、今は盲目の極に達し、悪魔に勧められて大に尊崇された偶像を、諸国より安土の寺院に持ち来った。但し之を崇拝させる為でなく、之に依って己を崇拝させん為であった。
凄まじい現世利益で面白いがまあ日蓮宗も含めワガクニの信仰らしいともいえる。他方で一向衆に対する秘やかな憧景も感じられる。ああいう雑兵とネットワークは是非欲しいところだろう。このノリではいずれキリシタンと確執するのは時間の問題だから、どのみちバテレン追放令は出る予定か。問題は本願寺との戦況しだいであろう。
けれども権力は手に入れた信長も権威のほうはそう簡単には手に入れられず、1582年には朝廷に関白、太政大臣、将軍のどれかの地位をくれろと要求している。ここにいたって臣籍にあまんずるも止む無しと判断したのである。その意味では本能寺以前に信長の野心は潰えていたというのが『戦国大名と天皇』(今谷明)の 主張である。なんでもいいけどノブナガというお人何度ものの本で見てもタマラン人である。