ayya #24 ミニスカートの犬養毅、問答無用で射殺さる。

  1932年5月15日、白昼首相官邸に犬養毅首相を訪ねたのは三上卓中尉をはじめとする9名の若手将校。ピストルをつきつけられた犬養翁、すこしもあわてず「話せばわかるじゃないか」と一行を座敷に招く。「話すことなど何もない。」という三上中尉だが、この老政治家に最後の言葉を残させてやろうと考えた。さて先に座敷にあがった犬養翁を9名が軍靴のままとり囲む。「クツくらい脱いだらどうだ。」と犬養翁、三上は「クツのことは後でよろしい、今日なぜ我々がきたのかおわかりのはずだ、国家の将来ためにお命を申し受ける。何かいいのこすことがあれば、いいなさい。それですべてが終わり、すべてが始まる。」これを聞いた犬養翁、敷島をとりだして吸おうとして手をとめ何事かいおうとしたその殺那、山岸中尉以下2名が遅れて入って来て「問答無用、撃て」。

  事前の意志一致で「犬養はタヌキであるから、論争になれば必ず負ける。話し合いはしてはならない。」ととり極めてあったそうである。

  こめかみから流れる鮮血を確認したのち一行は足早に現場を立ち去ったそうである。

  しかしシブトイのは犬養翁である。一行の立ち去った後家人の介抱で息を吹き返し、「あのバカどもを呼び戻せ、わかるように話してやる。」とイキまいたそうである。そんなわけで命日は5月16日である。

  この件については三上卓の手記がほるぷ社刊行の『日本の歴史』(家永三郎編)にあり、事件後の一言については中央公論社刊行『日本の歴史』にある。

  第二次世界大戦以前の議会制民主主義というのは「内にたいする民主主義、外にたいする帝国主義」が基本ラインであるし、実際犬養政権は対華積極策、軍部におもねった政策を軸としているから、ここで犬養を妙に持ちあげるのは妥当でない。また、これ以前に統帥権干犯問題では浜口内閣に対し攻撃に出ている。その意味では政党政治の側の自滅という見方はそれはそれで正しいだろうし、青年将校たちには金融恐慌以来、失政つづきの政党政治に対する失望はあっただろう。その意味では翁の側に相応の非はある。

  腐敗とか汚職とかそういうはなしではなく、マジメな人がマジメに仕事しての失策や無能は救い難い。井上準之介や浜口雄幸、若槻、幣原あたりのおそらくは彼等としては精一杯の政策が結局のところ効果をあげられなかったことにこそ暴走のトリガがありそうだが、でも暴走をストップできなかった以上制度そのものに欠陥があるというイツモの結論にはおちつく。とはいえ、では当時一体何ができたのか?といわれても難しい。アメリカにしたところが1937年までにはニューディール政策の失敗が明らかとなり、結局戦争特需によってようやく経済復興したような事情であるから。

  ところで、最後まで「話すこと」に期待をかけつづけた老政治家の無念はいかばかりだったろう。ご冥福をお祈りします。

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2001/05/15