1781年ヨークタウンの戦いに勝利したアメリカは1783年のパリ条約で独立を勝ち取ったものの必ずしも利害の一致しない13の州の寄り合い所帯に過ぎなかった。86、7年になって連邦政府樹立の動きもでてくるが、当時「共和制は小さな領土でしか成立しない」という常識があり、大きな領土をもつことは共和制を失なうこととして恐れられていた。また、シェイズの反乱により「民主主義の行き過ぎによる無秩序」が恐れられてもいたのである。そうした状況下、この年のフィラデルフィア会議で合衆国憲法が起草されるのであるけれど、これが今日からみると面白い。
合衆国憲法案は自由の保障に関して、権力分立制に加えて立法、行政、司法の三権間の牽制均衡によって、権力の乱用を未然の防止するように連邦政府を構成した。立法府の連邦議会は上下両院で構成され、相互に牽制しあうばかりでなく、拒否権をもつ大統領によっても牽制される。その反面、連邦議会は上下両院で大統領の弾劾裁判権を持ち、さらに上院は条約の批准および政府高官の任免に関する権限も備えていた。また司法府である連邦最高裁判所は任期が終身制、立法、行政両権に対して制度上の独立制を確保していたのである。
このように連邦政府は、もはや州間の国際機関でなく、君主制の活力を持ちながら自由を保障する中央政府として構想された。それは、共和国は小さな領土でしか存続しえないとする共和主義の一般的な見方を打ち破って、帝国的な領土に共和国を樹立するために、「連邦共和国」を樹立する、思想的にも独創的な提案だったのである。
『世界の歴史21 アメリカとフランスの革命』
当時流行の勢力均衡の図式を権力にもちこんで権力均衡というのは法の精神でおなじみの例のやつではあるが議会、特に下院に対して、ちょっと凄まじいまでに警戒している。いっぽう大統領に関しては複数制も提案されたが「複数の担当者制では失態を隠蔽しようとしてかえって無責任になる恐れがある。逆に単独首長制は君主制の活力を備えて、職務を責任をもって履行するので、『専制に対する最良の防衛手段』になる」ということで大統領制となった。
ようするにこの時期、共和国といってオランダと中世都市国家くらいしか知らず、理想的な政治のイメージは『有徳・開明的君主による理性的な政治』であったのだろう。 大統領には強力な権限が与えられ、立法に対する拒否権すら与えられている。この巨大な権力は世襲制でこそないにしろ君主のそれといえるだろう。ただし、君主制の問題点としては「専制」の可能性が警戒されていて、それへの歯止めとしての弾劾権は議会に残されてはいるのだが。
またその選挙においてはこれを間接選挙とすることで十分な数の選挙人を準備でき、全国を選挙に回れる財力が要求されている。ちょっと人気がでただけ、の貧民ふぜい(たとえばトマスペインのような)が間違っても大統領選挙に出たり、うっかり当選したりすることのないようにというシカケであろう。
人民主権、社会契約を擁護イデオロギーとして推進された市民革命ではあるけれど、それは一方で当の民衆にたいして無知蒙昧の下々の民を恐れる気持ちも強くはたらいているようである。それと同時に王侯君主というものには根強い人気があって、それを否定したはずの人々からでさえ所々にそれへの好感が垣間見える。これは国家とか共同体とかいった抽象的なものへの愛着はわきにくいが、それを具現化する人物への愛着はわきやすいということなのだろうか。これはちょっとよくわからない。