とくに遮光器土偶がすばらしい。
似たものは県下のほうぼうの遺跡から出土しているが、明治十九年(一八八六)にここから出土したものが、もっともすばらしく、一度みるとその形象はわすれられない。 女性一般の像である。
古代人は、写実がつまらないとおもっていたらしく、好きな(あるいは神秘的な)部分を思いきって誇張した。この場合は目で、眼窩が誇張され、両目が顔からはみでるほど大きく、しかも瞳はいれない。眠ったように眼裂は横一線で間にあわせている。鼻孔と口には関心がうすかったのか、ごく小さく付け足されているだけである。
強調される両眼の表現が、イヌイット(エスキモー)が晴れた雪原でつかう遮光器に似ているために、考古学では遮光器土偶と呼ばれてきた。
[中略]
ともかくも人体という現実からほど遠いものである。
現実から遠いほど、呪術性があったのかもしれない。もっとも単に呪術性を目的とするならもっと簡素な造形も存在する。この遮光器土偶の場合、過剰に変形され、わずらわしいほどに装飾がほどこされている。
「意図は、なんだったんでしょう」
車中、鈴木さんにきいてみた。鈴木さんは、ご自身なが年考えてきたことらしく、私の顔をまっすぐに見て、
「芸術だったと思います。」
[『北のまほろば』司馬遼太郎]
ある日 近所のコンビニエンスストアに行くと、雑誌の書架に各種マンガ雑誌がならんでいる。それら雑誌のひとつが目にはいった。性的表現を主要なテーマとしているらしいその雑誌の表紙に女の人の絵が描いてある。彼女はかつてビキニと呼ばれたタイプの水着をまとい、やや前かがみの姿勢で両手を不知火型に開いて、見るものを威圧しているのである。顔面に浮かべられたあいまいな微笑とその由緒正しいファイティングポーズの齟齬、異様に発達した乳房と臀部は画の遠近法を崩している。のみならず、全体にデッサンに狂いを生じていてこうした不均衡がわたしを困惑させる。
まあ、ふだんならその手の雑誌が視界に入ったところで0.3秒くらいで次の日常の雑事が私の関心を魅きつけ、それらは意識の彼方へと消えさるわけだが、その画だけは何かに似ているという訴えをしつづける。
半日後にわかった。遮光器土偶である。まったく違う体型、デザインでありながら遠近法を無視して周囲の輪郭をたどるとそれらはきわめて酷似していたのである。マンガの女性の腰部の極端なくびれは姿勢と腕が覆い隠していたのである。
人類がこの文明を継承しそこなって千年、再度考古学なんぞをはじめた人類がこのマンガ雑誌を発掘してこんな会話をするのだろうか。
ともかくも人体という現実からほど遠いものである。
現実から遠いほど、呪術性があったのかもしれない。もっとも単に呪術性を目的とするならもっと簡素な造形も存在する。このマンガの女性の場合、過剰に変形され、わずらわしいほどに誇張がほどこされている。
「意図は、なんだったんでしょう」
「ポルノグラフィーだったと思います。」
ともかく大量のスッポンポンのネエちゃんが意味不明な微笑を浮かべた画だの写真だのがガンガン出てきたりするのだろう。それらに込められた淫靡なないしは神聖な願望や夢のたぐいは呪術的ですらあるかもしれない。
性行為そのものの売買は古代からさまざまあれどもポルノグラフィーとなるとあんまり知らない。江戸時代くらいのポルノグラフィーなら、あるいは文化財としてあるいは作品としてあちらこちらにぽろぽろあるわけだけれどそれ以前となるとあまり心当りがない。
えっち噺のたぐいだと「遊仙窟」くらいだろうか、古事記なんかでも性描写はあるけれど「まぐわいせむ。」「しか、よけむ。」とかいっちゃってあっさりイタしてしまうのでポルノグラフィーな幻想にいまいち欠ける。これが伊勢や源氏になってもけっこうあっさりいたしてしまい淫靡な幻想というやつがたりないように感じる。外国ものだとカーマスートラとかそういうのが出てくるのだろうけれどこれもポルノグラフィーっていうのとはちょっと違いそう。ポルノグラフィーの発達と普及こそが近現代を特徴づける文化なのかしら。
映画ができたら、エロ映画。
ビデオができてもエロビデオ。
パソコンが普及するとエロソフト。
ゲーム機が普及したらエロゲーム。
インターネットの普及にはエロサイト。
なんらかの文化のいれものができるとそこにはかならず、ポルノグラフィーがはいってくる。とはいえ視覚に大きく依存しているようである。そのあたりもまた近現代風か。
とかいいつつ、遮光器土偶が縄文人のポルノグラフィーだったりすると面白い。あまりに淫靡な幻想が発展し過ぎてほとんどわれわれの理解を絶っしていたりして。
土偶見て、ヘラヘラますかく縄文人
2001/09/05