ayya # 045 アメリカ大好き (後編)

 ここまでハタ迷惑のかぎりをつくしておきながら国内はといえば、90年代のいわゆる「ひとり勝ち」状況のなかでも創出された雇用は臨時職、パートばかりでもっとも成長した情報産業ですらリストラと称する解雇の嵐が吹きあれたのである。

 2001年9月11日にいわゆるテロリストの反撃にあうと10月にははやくも航空各社は大規模なリストラである。乗客を守るため、運行を守るためとかそういうことなら臨時にしなければならないことはたくさんあったろうに、まっさきにしたことは会社の、そのうちでも経営側の利益の確保である。ここには雇用を守るなどという意識は毛ほどもなく、解雇は経営者の当然の権利として位置付けられているようである。

 ポール・クルーグマン「クルーグマン教授の経済入門」によれば、アメリカ人の収入のうち73年から94年で増収となったのは収入上位半分だけで、下位半分はむしろ減収であり、上位5%が目覚ましく成長する一方、下位の下落も目覚ましい。 オーストラリア国立大学の教師、マイケル・マッキンレーがイリノイ州シカゴで開かれた国際論協会第42回年次大会で発表した論文、グローバル化という名の戦争(2)では

 先進国の北側でも明らかに南側の状況が出始めている。もっとも顕著なのが米国である。より平等な所得と富の分配に向かった過去1世紀の傾向は逆転し、ここ10年で大部分の米国人の世帯所得は横ばい、または実質賃金が減少し、貧困が増加し始めた。しかし同時に裕福な最上位1%の米国人家庭の所得は115%増え、米国人の億万長者の数も急増した(1975年は642人だったのが、1991年には60,667人に増加)。マンハッタン(ニューヨーク州)の富裕者と貧困者の所得格差はグアテマラのそれを上回る。

 とのことである。貧富の格差は拡大する一方であり、平均的アメリカ人の収入は過去30年間ほとんど伸びていないのであった。しかも社会保障は先進国にしておくのがはばかられるほど薄く、健康保険すらないに等しいのである。

 労働生産性すなわち一人あたりの生産額が新技術の導入ないしは労働者の努力によって上昇し、過去5人必要だった仕事が3人でできるようになったからといって、彼らの仕事が楽になるわけではない。単に2人が解雇されるだけなのである。この点では、なるほど資本家VS労働者という19世紀型図式よりは新中間階級の上位部分を含む一握りの富裕者VS残りの新中間階級を含む貧者という現代型図式には変化しているけれど、労働者は労働に打ち込めば打ち込むほど、却ってその労働から疎外され、労働者の賃金は飢餓賃金へと向い、社会矛盾が激化していくというマルクスの見方がやっぱり正しかったのかという気もする。

 ところがそのアメリカが何故かわれわれ日本人の心をとらえて離さないのである。福澤諭吉や新渡戸稲造、津田梅子あたりのアメリカかぶれはいたしかたないとしても、やれ海外の教育システムに学ぶだ、税制の直間比率を比較するだ、投資システムをいじってベンチャー企業の発展を促すだ、規制緩和だ、自由化だとお手本のはなしが出るといの一番に出るのがアメリカである。あの階級社会がそんなにウラやましい社会なのか。おまけに洋画といえばアメリカ映画で洋楽といえばアメリカ音楽で、遊園地といえばディズニーランドにUSJである。

 いまだにギブ・ミー・チョコレート精神まるだしでアメリカというだけで有り難がってしまう心性がわれわれには残っている。やっかいなことにそれはときに逆に素朴な反米感情としても発現してしまう。これはアメリカ崇拝を離脱したいという願望の余勢かもしれず、高貴なもの、強いもの、繁栄するものをひきずり降ろして貶めたいというルサンチマンの顕現なのかもしれない。

 ところで、マルクス型にしろ古典型にしろ近代経済型にしろ、生産の増大が前提なのだけれど、幸福に暮らしながら生産を減少させていく方法ってのは無いんだろうか。いまの先進国ふうの暮らしぶりを残りの人々が要求すれば二酸化炭素にしろ、エネルギーにしろ、食料にしろ、ゴミ処理にしろ破綻するのが見えているわけで、人類が生き残るという目標ではどうやって生活に必要なものやエネルギーを減らすかということこそが課題のように思われるのだが。いかにものを生産しないで済ませるか、という経済学ってないのかな。

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2002/4/19