無知蒙昧大衆のダメさを労働運動のほうが立証してしまうという状況のなか50〜60年代の繁栄の時代を迎え、運動は沈滞してしまう。しかしこの繁栄のなかで労働者の側の富裕化もまたすすむ。一方ジェントルマン支配階級にしても中流階級と同様、工業化の進展とともに着実に増大・成長していくこの階級をいつまでも議会政治の外側にとどめておくわけにはいかず、自由党も保守党もいまや労働者階級に対する何らかの選挙権拡大が不可避だと考えるようになった。なかでも「労働貴族」がリードする上層の熟練労働者層はいまでは完全に体制内的存在となっており、グラッドストンにいわせれば、この自助と節約の気風に富む熟練労働者に選挙権を与えないのは道徳的罪悪でさえあった。
こうして第二次選挙改革へと時代はすすむわけである。
第二次選挙法改正の議会審議の最大の問題点は、自助と節約の倫理観をもち、それなりに教養もある体制内化した熟練労働者と、いまだ教養もなく体制内化したとは思えない労働者とをどこでどう区別するか、ということにあった「財産と教養」をもって参政権の資格と考える当時の大方の議員にとって、財産も教養もろくにない不熟練労働者や貧民をも有権者とする議会制民主主義は、なお思考の外にあった。
そこでまず66年に、多数派政権である自由党の第二次ラッセル内閣(下院指導者は蔵相グラッドストン)が、それまでおこなわれてきた10ポンド戸主の都市選挙資格を7ポンドに切下げる法案を上程した。だがこの7ポンドの線は便宜的なもので、この法案は体制的労働者の財産資格がなぜ7ポンドでなければならないかを論理的に説明することができず、そこが大きな難点であった。
明確な歯止めがなければ7ポンドの線はやがて5ポンドに、さらには3ポンド、1ポンドへと順次切下げられていき、ついには無知蒙昧な不熟練労働者や貧民を含む全大衆が有権者になるにちがいない、というのが多くの議員の心配した点であった。とりわけロバート・ロウを指導者とする自由党内40名の懐疑派議員は、この裸の民主主義がもたらすであろう「数による専制」の不安をどうしても払拭することができず、党内反乱をおこして反対を貫いたため法案はあえなく潰え去り、内閣も総辞職のやむなきにいたった。この40名の懐疑派は旧約聖書の故事(サムエル記)にならって「アドラムの洞窟派」と呼ばれた。
ついで少数党ながら代わって成立した保守党の第三次ダービー内閣(下院指導者は蔵相ディズレーリ)が、翌67年にまた別の法案を上程した。この法案は都市選挙資格を一挙に戸主選挙権に切り下げることを主要な骨子としており、そのかぎりで自由党案の難点を克服してはいたが、同時に有権者の居住期限を一年から二年に延ばすとか、間借り人には選挙権を与えないとか、学位保有者と年1ポンド以上の直接税納入者には二票与えるとかいった各種の付帯条件をつけ、戸主選挙権がもたらすであろう大幅な民主的効果の相殺を図っていた。
この一応論理的だがどこか見えすいた作為的法案は、野党の猛反発を招いたが、下院指導者のディズレーリは、それら付帯条件の撤去を求める自由党の修正動議につぎつぎと譲歩していった。というのも、これは当初からのディズレーリの議会戦略で、彼は「アドラム洞窟派」の党内反乱という自由党の分裂状態につけこんでこの歴史的な難問題解決の主導権をわが手に握り、かくすることで46年の穀物法廃止以来、万年少数党の立場におかれてきた保守党の起死回生を図ろうとしていたのである。そして彼のこの戦略はみごとに功を奏し、あれよあれよという間に、多くの議員が当初は予想も望みもしなかった裸のままの戸主選挙権(ただし地方税の納入を要件とする)が結果として生み落とされることになってしまった。
『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』
というわけで戸主選挙権そのものは党利党略のもつれの結果として誕生したのであった。あまりのことに当時のジャーナリズムはこの政治的大冒険を「暗闇の跳躍」と呼んだ。「アドラムの洞窟派」の領袖ロウは「いまやわれわれは、われわれの主人である大衆を教育しなければならなくなった。」という名セリフをのこし、実際こののちグラッドストン内閣は70年には初等教育法を成立させ、大衆の義務教育への道を開くことになる。選挙権を与えてしまった以上、無知蒙昧の大衆のままでは困るのである。なんとしてでも体制内的なものの考えかた、価値観を注入する必要があるのだった。
2003/3/21