『#027代表と課税』ではアメリカを例にとり、選挙権の財産制限のわけは、国家への納税による貢献が発言力の根拠となったからではなく、ただ無知蒙昧(*1)の貧民大衆を財産をもつ支配階級の人々が恐れたため、とした。イギリスでの普通選挙のはじまりは1867年の第二次選挙法改正からとされる。これは正確には普通選挙ではなく都市の戸主選挙(*2)であるがこれを達成したのは自由党のグラッドストンではなく保守党のディズレーリであった。
ことは1832年の第一次選挙法改正にさかのぼる。当時下院を構成したのは都市選出議員465名、州選出議員188名、大学選出議員5名の計658名であり、イングランドの200の都市選挙区のうち137は有権者が600名未満、うち56は50名未満である。いわゆる腐敗選挙区というやつである。いっぽう工業化を主導した北部・中部には都市選挙区が少なく人口10万〜30万となったマンチェスター、バーミンガム、リーズ、シュフィールドなどは都市選挙区にすら指定されてはいなかった。結局選挙制度は農業の利害に立つ地主階級の政治支配の道具であり、新興の中流階級は選挙権から疎外されていたわけである。
1830年に政権についたホイッグ党はただちに選挙法改正案の作成にとりかかり翌31年に法案は上程される。その骨子は
である。
野党トーリー党の反対にあいつつもようやく法案は下院を通過、問題は上院(貴族院)である。このときには中流階級と穏健派労働者を代表するバーミンガム政治同盟、急進派労働者の結成した全国労働者階級同盟といった圧力団体が議会外で運動を展開し、ブリストル、ノッティンガム、ダービーではついに民衆の蜂起へと発展。ノッティンガムでは守旧派のノッティンガム城が焼き打ちにあい、ブリストルでは市庁舎、主教館、刑務所、税関が焼き払われた。暴動は結局軍隊によって鎮圧されたけれども、この状況を背景にグレイ首相は上院での過半数確保のための新貴族創設を国王ウィリアム4世に要請。国王は渋ったが結局これを認め、ここにいたって上院守旧派も屈伏かくて第一次選挙法改正はなった。
しかし、これによって参政権を得た中流階級もそれ以上の改革は望まなかったので結局伝統的な貴族・ジェントリーの政治支配は一層強化されることになり、その意味でこれは伝統をよしとし、状況に即した部分的改変によって現状保存をはかるイギリス流保守的改革であった。
労働運動のほうはこののち、さらに高揚し、いわゆるチャーチスト運動へとつながる。全国労働者階級同盟の指導者であったウィリアム・ラベットらは下院民主化のための人民憲章を採択し、男子普通選挙、秘密投票、毎年の改選、議員の財産資格の撤廃、議員への歳費の支給、平等な選挙区の六項目の要求をかかげて運動を推進した。この運動は全国の労働者の署名を集め、議会への請願運動を組織する形で展開されたが、運動ははじまってすぐ二つの勢力の対立が際立ってしまう。ラベットら、あくまで合法的手段による運動の推進を主張する道徳派と、運動を推進するうえで必要とあらば暴力も辞さずと主張したオコンナーひきいる暴力派である。
やがて運動は暴力派主導で展開し、39年にはニューポートで労働者の武装蜂起があり、42年にはランカシャーを中心に工場労働者のストライキがおこる。これは工場の蒸気機関の点火栓を抜いてまわったので「点火栓ひきぬき暴動」という。革命の年、1848年にはロンドン大デモンストレーションがおこなわれたが当局が集めた15万人の大警備陣によってデモ行進はおさえこまれてしまう。やむなく、請願書は200万ちかい署名簿とともに議会に馬車で届けられたけれども署名のなかに「獅子っ鼻」「団子っ鼻」「ヴィクトリア女王」「ウェリントン公」といったインチキ署名(*3)が多数発見されたためオコンナー以下運動指導者たちの面目はまるつぶれとなり、ついに請願書の提出は断念された。運動は50年代のはじめまで継続されたがもはや昔日の力はなかった。
註
2003/3/19