日本人の特徴のひとつに床や地面に坐るというのがある。正座のほうは江戸時代以降の普及なのであまり歴史がないが胡座のほうは千年以上まえの絵巻にはやくも登場する。もうひとつ蹲踞のほうはこれまた平安時代の絵巻物にもよく描かれている。これが多少前かがみになると「うんこすわり」あるいは「つくもる」(註1)と呼ばれ老若男女を問わずポピュラーである。いづれにしても床や地面に直接坐るわけである。
西ヨーロッパ、アメリカ系の外国人はこの蹲踞ないしはうんこ坐りが苦手で椅子がないと坐れない、とかつていわれたものである。が、わたしのみたところ来日するひとや日本で暮らすひとは蹲踞だろうが胡座、正座だろうが結構器用にする。それでも生活文化という点では椅子を使用するようである。中国・韓国系の文化でもとりあえず典型的に紹介されるぶんには椅子を使用する。とりあえず、中国・香港映画をみるかぎりあんまり地面には坐らないようである。しかし、イラン映画やインド映画ではわりあいに地面に坐っているから、日本独自というわけではなさそうである。
諸外国に例はあるにしても日常生活で地面あるいは床に直に坐るという習慣は日本の伝統文化ではある。なにを隠そうこのわたしはどうも椅子に腰掛けていると落着かない性分でちょっと油断をするといつのまにやら椅子の上で正座や胡座姿勢をとってしまう。とくに物を喰うときと映画をみるときがいけない。椅子に坐っていると足がむずむずしてくる。芝居見物の場合は床に茣蓙という小屋が多いので問題ない。がちょっと立派な劇場になるとやはり椅子だったりするので非常に危険である。はたと気がつくと椅子上で正座している。
この床に坐るという行動パターンにどれくらい歴史があるかというと、
「年中行事絵巻」を見ると、宮廷行事の行なわれているとき、民衆は庭前や軒下にたむろし、時には焚火して話しあっている。門を守る衛士たちも、そうした民衆が宮廷の域内にはいることをとがめだてはしなかったようである。江戸時代にはいって武士の勢力がつよくなると、民衆は武士の行列の折、「下におろう」の掛声に土下座して這いつくばらねばならなくなるが、もとは土下座しておりこそすれ、這いつくばらねばならぬことはなかったのである。
土下座というと、きわめてみじめな姿を想像するけれど、どこにでも坐るということは、それほど生活が自由闊達であったといってよかったとかと思う。身分の高い公家でないかぎり、地下人(じげにん)といわれる者はほとんど大地の上に坐り、また腰をおろしている。京都付近は土質が砂壌土で、土の上に坐っても着物がそれほどよごれなかったためかもしれないが、大地にあぐらをかいてこそ人びとはある安心感をもつことができたのではないだろうか。
そのような姿勢は伝統として京都地方には長く残っていた。今日、三条のあたりから加茂川に沿うて上流へ歩いてみると、ベンチがほとんどおいてなく、人びとはみな草のあるところに坐って休んでいる。地面に坐ると空罐などもそこに捨てていくことは少なくて、下加茂あたりの河原を歩いても清潔感があふれている。土下座をあたりまえと思う世界にはそれなりのマナーがあったのである。ベンチのおかれているところに空罐の多く捨てられていることにわたしは興味を覚えている。
宮本常一『絵巻物にみる日本庶民生活誌』
というわけで平安時代にはもうすでにそうなっていたらしい。以降鎌倉、室町、江戸時代と地面にむしろをしいたり、板間あるいは畳のうえに坐る、あるいは地面に直に坐る文化がつづく。それ以前となると奈良時代であるが、これは民家として竪穴式住居が使用されていた時代なので、結局、縄文時代から連綿とないしは断続して地面にすわってきたわけである。
ところで、そうして床なり地面に坐って、そのわきを立つひとや歩くひとがいるとどういうわけか無防備な坐るほうよりも、優位なはずの立つほうが圧迫感をうける。電車や駅の構内に坐るひとがいると、物理的に通行の障害となっていなくても迷惑呼ばわりされるケースがある。
2002年度の電車内での迷惑行為には、携帯電話でメールを打つ、化粧をする、通路に坐る、などがあげられている。混みあった電車で隣の人に粉末ないし液体がかかる状態であるとか、現実に通行の障害になっているとかそういうことなら、たしかに迷惑行為だが、そうではなく見ていてイヤな気分になるから迷惑であるという甚だ自己中心的な言い分があったりする。そういう論法を認めてしまうと、美形でないとか服装のセンスが悪いとか、そういうことすら迷惑行為になってしまう。こういう論法にたって夏のクソ暑いのにスーツのジャケットを着てネクタイを締めるやつは見ているだけで暑苦しから迷惑だ、というのも悪くない。が、そういう無茶な論法がそれなりの説得力をもつくらいに床に坐る人間というのは立つ人間に圧迫感を加えるものらしい。
ここらへんの事情を別役実は次のように記している。
それまで腰掛けていたものが、何かの都合で椅子をとりはらって、坐りこむと、とたんにその場は一種独特の雰囲気を帯びてくる。それは、良く言えば打ちとけてなごやかになるのであり、悪く言えば猥雑でいぎたなくなるのである。そして何よりも、坐っているということでの何かしらの了解事項がそこには成立していて、それが立っているものを微妙に脅迫する。たとえば花見などで、道のすぐかたわらにむしろを敷いて宴を張って人々を見ると、何となくそばを通り抜けるのに気遅れすることがある。そうすることによって、それらの人々が作りつつある何ものかを、損なうような気がするのである。
しかし、この関係の奇妙なところは、立っているものが坐っているものから或る種の圧迫を感じるほどには、坐っているものは立っているものから同じそれを、それほどには感じないということである。花見の宴席にいったん坐りこんでしまうと、とたんに気が楽になって、あたりを人が通ろうと、立ちどまろうと、さほど気にならなくなる。そこに酒があって食物があって、そうすることがあらかじめ了解されているからだけではない。立っているものの視線の埒外に出た感じがするのである。
別役実『電信柱のある宇宙』
この本が出たのは1980年なのでかれこれ20年あまりになるが坐るひとの威力というのは随分昔からあったらしい。さればこそ、抗議行動ではたとえ業務に支障のない場所であっても坐り込みという戦術が可能であり、一心太助が「煮るなり、焼くなり、勝手にしやがれ」と坐りこむといわれたほうはタジろいでしまうのであろう。
さて、その昔はヤンキイの兄ちゃんが駅前に坐り込み、いまどきは高校生が電車で坐りこんではいいおじさんおばさんの顰蹙を買ったりするけれども、坐るほうはいわばわがくにの伝統文化の徒であり、ブツブツ文句をいうほうはそれに圧迫感を感じているわけである。
ところでかつて一戸建てにはなぜかかならず、備えつけられていて、けっして使用されないものに応接セットというものがあった。低テーブルとソファ二脚、ソファベッド一脚である。
先日NHKアーカイブで70年代のドラマ「男達の旅路」があった。この一シーンでこんなのがあった。最初は応接セットで洋酒などちびちび飲んでいるが、酒が回ってくるとソファからすべり落ちて床に胡座かいて手拍子なのである。これが伝統文化の威力というやつか。
2003/7/9