ayya # 074 十二国記 月の影 影の海

  NHKの人気アニメに『十二国記』というのがある。原作は小野不由美の同名シリーズである。ストーリーのほうはこうである。

  ヒロイン陽子は女子高生。めだつことが嫌いで、両親にも先生にもクラスメイトにも嫌われないように万事ソツなくこなすタイプ。いじめにもほんとうは自分はこんなことはイヤなんだけどという構えで、それでもみんなには逆らえないからと消極的に加担する。そこに突如ケイキという異世界からの異形の使者が来てこちらに来てくださいという。追っ手が迫っているので時間がないという。言にたがわず巨大な猛禽類が襲ってくるわ、使者の子分は狼の類の猛獣類だったりするわ、わけのわからないうちに異世界についていくハメとなる。

  ところが移動中、追っ手に襲われて陽子はひとりはぐれてしまう。異世界で陽子は怪しい他所者として官憲には追われ、森では妖魔とよばれる化物たちに襲われ、食物には飢え、とヒド目にあう。ケイキのくれた刀とそれを扱う不思議な能力で妖魔を退治しつつサバイバルする毎日となる。ついに飢えのあまり里におりて盗みをはたらこうとしたところを住人の初老の女にみつかってしまう。

  ところがこの女がかえって親切に食事をくれ、風呂をふるまってくれ、この国の着物をくれ、寝処を提供してくれる。あまつさえ、事情を聞いて都会の宿屋ではたらきながらケイキを探すように薦め、知り合いの経営する宿屋を斡旋してくれる。親切に感激して、都会の宿屋についていくとそこは女郎屋で、あやうく売りとばされそうになる。すんでのところで逃げると官憲に通報され窮地におちいる。

  逃げ先で、自分と同じように日本からこの世界に迷いこんでしまったという老人にであう。この老人が親切にこの世界のことをいろいろ教えてくれたのだが、一夜明けてみると彼によって官憲に密告されてしまう(小説では荷物の持ち逃げをされる)。

  親切そうな人の二度の裏切りで、すっかりひとを信じなくなった陽子はひとり森のなかで妖魔と闘いながら、はぐれてしまったケイキを探して、あてのない旅をつづける。ケイキにあって元の世界に返してもらうためである。しかし、飢えと疲れからついにいき倒れてしまう。

  そんな陽子を自宅へ連れ帰り、ねんごろに介抱してやったのは半獣人の楽俊である。彼は人間でありながら、半分ねずみの身体をもち、それがゆえに差別されている。自らの不遇のゆえに、他所者というだけで追われる陽子に同情する。そして、彼女に他所者や身体の異常のあるものに寛大な雁国にいくようすすめ、自ら同行する。陽子は、もはや楽俊さえ信用はしないが、彼と行動を共にすることがさしあたってメリットがあると考え同行する。

  道中、ある城下で巨鳥の妖魔におそわれ、いあわせた大勢の人が死傷し、楽俊もまた負傷し倒れる。陽子はすでにこの程度の妖魔は楽しんで退治するようになっており微笑しつつこれを退治するが、闘いのあとあたりに累々と横たわる死傷者の群れを見て、そこを逃げる。巨鳥を退治したとなれば、通常の人間でないことがあきらかとなり官憲の目をひくからである。その際倒れた楽俊を見るがそのまま森へと走る。

  森にはいった陽子は不安になる。楽俊は大丈夫だろうか。死んだろうか。息をふきかえし、自分のことを官憲に密告しはしないか。戻って息の根をとめるべきではないか。そして彼のもつ現金を奪っておけばこのさき楽に道中がつづけられるのではないか。

  自問自答はつづく。親切にしてくれた楽俊を見捨てることは人としてやってはならないことだったのではないか。しかし、楽俊もまた何かの方法で自分を利用しただけではないのか。下心あってのことではないのか。

  追いつめられて誰も親切にしてくれないから、だから人を拒絶していいのか。善意を示してくれた相手を見捨てることの理由になるのか。絶対の善意でなければ、信じることができないのか。人からこれ以上ないほど優しくされるのでなければ、人に優しくすることができないのか。

  「……そうじゃないだろう。」

  陽子自身が人を信じることと、人が陽子を裏切ることは何の関係もないはずだ。陽子自身が優しいことと他者が陽子に優しいことは何の関係もないはずなのに。 ひとりでひとりで、この広い世界にたったひとりで、助けてくれる人も慰めてくれる人も、誰ひとりとしていなくても。それでも陽子が他者を信じずに卑怯にふるまい、見捨てて逃げ、ましてや他者を害することの理由になどなるはずがないのに。

  かくて楽俊の安否を確認しに戻る陽子だが、結局はたせず、旅をつづけることになる。このあとアニメでは旅芸人の一座にひろわれて、仲間を信じ、仲間に信用されるひとになる。小説ではひとりで森をゆき飢えたときには里へでて、村人に軒先を借りたり仕事を手伝って給金をもらったり、官憲をよばれて逃げたり、トラブルになって剣をふるって逃げたりする。ともかくも舟にのって雁にわたり、さらに物語はつづく。

  長いあらすじ紹介である。さて、どうも気になるのが、二者択一法である。人を信じる/信じない。味方か/敵か。善意の人か/悪意の人か。二者択一で発想するのである。少女の成長の物語ではあるから、傷ついて目覚めた彼女は再び人を信じて生きるようになるのであるが、問題はアニメ版の展開である。相手の見返りこそ要求しなくなるものの二者択一の発想がしっかり温存されているのである。ふたたび信用するようになったが、それは「ほんとうに信頼できるひと」を「どこまでも」信頼し、信頼した以上「裏切られても後悔しない」といった行動パターンなのである。これでは世界を善人と悪人に二分し、前者を味方とし、後者を敵とする二分法がそのままである。なんでわざわざこんな脚本にしたのか全然わからない。

  その点原作小説のほうではひとに助けを求めることを覚え、信頼はするが無制限にあてにしたりはしない。トラブルのときは彼我の利益を調節するなりその時点で逃げるなり相手にあわせた信頼と期待、まちがった場合の事後処理とじつに柔軟な対応をする。これでこそ成長というものであろう。

  ひとはたまさかの機会で知りあったひとに対しそれなりの配慮や善意をもつが、自分自身が危機に陥ってもそうするかどうかはそのひとにもよるし、間柄にもよるし、なりゆきにもよるだろう。そもそもそういう渾身の善意はそうそう期待すべきでもあるまい。それなりの間柄のそれなりの善意。それで大抵の用はたりるし、生きていくにはそう困らないものである。

  あれか、これか、中途半端はゆるされない場合が存在するということは否定しないが、そうでない場合が幾どであろう。さればこそ某国大統領がテロリストの側か、テロリストと戦う側かどちらかを選ばなくてはならない、と演説すれば、テロリストはアンタでしょうが、とツッコミをいれずにはいられないわけである。いちいち究極の選択なんかさせられてはたまらない。

  さしあたりわたしはあれか、これか式のものいいをする人というのはウソをついている、と考えている。少なくとも過度の単純化をしているものと看倣している。ほんとうに第三、第四の道はないのか、折衷はできないのか、そこをちゃんと尽くさないで二者択一で発想するのは怠慢というものである。

  さて、もうひとつ気になるのはテーマ曲である。わりと単純なコード進行でわたしの好みの曲調であるが、こまったものは歌詞である。

月影をどこまでも虚海はひろがる
銀色のやさしさにいまは眠ろう
記憶の中で探しつづけた
人のぬくもり孤独の雨に
このからだ朽ちてもきっと走りとおす
あの世界の涯の虹にとどくまでは

  一行一行は陳腐といえなくもないがそれなりに含意もあり、詩的でもある。しかし、全編を通じた物語がまるで見えてこない。なんとなく、高校生なんかが授業の徒然にノートのすみにつづるバカポエムのたぐいのようである。ところがこういう感情ないし気分の独白というのは普遍性があるらしく、はやりうたの類など耳にしていてもなんとなく多くなっているような気がするのである。物語はとっくに崩壊してしまったのだろうか。

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2003/6/15