少しくまえのことになるが、バーチャルリアリティなる文言が流行した。このバーチャルという言葉を辞書で引くというと
virtual vir・tu・al 1 (表面または名目上はそうでないが)事実上の,実質上の,実際(上)の. It was a 〜 promise. (約束ではないが)約束も同然だった He was the 〜 leader of the movement. 彼はその運動の事実上の指導者だった. 2 【光】 虚像の . a 〜 image 虚像. ラテン語「力のある」の意
などとあり、概ね「事実上の」とか「実際問題のところの」くらいな意味で使われる用語である。がどういうわけか、バーチャルリアリティには「仮想現実」という訳がついた。それ以前にも例はあって、i386というCPUはさしあたり16bitで動作するのだが、これをリアルモードと呼び、動作を切り替えると32bitで動作する。で、こいつはバーチャルモードというのだがこの訳語がまたどういうわけか仮想モードという。仮想も何もほんとに32bitで動作しているのに、と思うのだがここらへんどうしてこういう訳になったんでしょ。
さて、バーチャルリアリティのはなしである。厳密にいえば、現実ではないが、もはやこれは事実上現実とみなして変りがない、といった意味合いで使用されるわけである。例としてはコンピューターを使用したシミュレーションがあり、これは現実ではないが、かりに現実にある条件を与えた場合のありうる現実の姿ということである。また、パソコン通信のBBSはバーチャル会議室なんて表現をしたものである。現実の会議室ではないが、実質的に会議室の役割を果たしているというわけである。
ところがコンピューターのグラフィック、のちには映画やゲームの映像、効果音のよくできたさまをも言うようになったと記憶している。現実ではないが視聴者にはまるで現実のように体験されるといった趣旨で、もはや視聴者にとってはその光景、その事件は実質的に現実とかわりがないというわけである。
しかし、こういうバーチャル、擬似体験ならば、新聞、雑誌、テレビなどを通じてつくられる経験もまた充分バーチャルである。テレビドラマや劇映画の中で当然としてあつかわれている思想ないし常識を現実世界での当然だと思いこめば、もちろんそれは擬似体験であるし、そう思いこんでいる人間が増殖すればこんどは現実となる。
ニュースの類であっても、現実に取材された人が自分のことが報道されたニュースをみると大抵の人はそのニュースを見て「ひどい、加工だ。改竄だ。」ということになっている。もちろん加工はされているし、恣意的取捨選択はどのみちされなければメディアに載せることそのものが不可能になる。けれどもじゃあ現実の体験をした人がどれほど事件の全貌を把握しているかというとこれまたアヤしい。複数の関係者が同じ事件について語ると語った人の数だけストーリーがあるというのがこれまた、よくあるパターンである。いったい現実とは何だというこれまた古典的なはなし(註1)になるのであった。
ところが、一方では戦争映画を見てはリアルな表現だといい、SFXで作りあげた恐竜をみてはリアルな恐竜であるといい、嵐で難破する船のグラフィックを見てリアルだという。いったい戦争映画で見えるような全体を俯瞰するような視座は現実戦争においては前線の兵士にも、被害を被る住民にも、後方の司令部にもありえない。前線の兵士や住民はわけのわからないうちに爆弾は落ちてくるわ、鉄砲の玉が飛んでくるわ、毒ガスがあたりに充満し、自分がどういう目にあっているのかもよくわからないうちに死んでいくもんであろうし、後方の司令部は前線からのバラバラの断片的な報告をまとめて、全容を把握しようと努め、次の命令を発動するわけであるけれど、劣勢であればあるほど前線からの報告は途絶えがちになり、状況把握が困難になる。ここらへんは旧日本軍の大本営がどこまでが架空の戦果で、現実の戦況がどうであるのかを自身ですら正確には把握できていなかったことが想起される。
限りある情報からより正確な状況を「あたまのなかで」構成する能力に長けたものがよい指揮官というわけだが、これこそバーチャル体験にほかならない。恐竜や難破船にいたってはリアルという比較対象が全くないか、少なくとも体験などしたことはない。ここらへんは死についてはほとんど誰も体験がないのに、ああこれはリアルな死の体験だったというのと同じことである。
ようするに人が「リアルである」と判断するような物は「たぶんこんなのだろうな」という予想を裏切らない物である。
さて、想像力に訴えかける物語という点では日常的なものからかけはなれているほうがよいということがある。こういう視点からは現在の物語よりは遠い過去の物語や未来の物語のほうが面白く、現実の人間による芝居よりは人形や絵による芝居のほうが面白いということになる。「等身大の自然でリアルなキャラクターだあ?そんなものはそこいらに現物がタンとある。なにをわざわざドラマなんか見るかい。」ということになる。等身大のどこにでもありそうなキャラクターがそれゆえに「却って」おもしろいというケースの存在を認めないわけではない。しかし、この「却って」の部分を忘れてはならない。
ところがどういうわけか、このリアルとか等身大とか、それだけで何か価値あるかのような言辞を聞くことがある。たとえば次のような言辞である。
粘土や人形なんかで作られているアニメの場合、自ずと限界があるのではないか、人間の感情にどれほど迫ってこられるか、
ここらへんは、仮面劇が仮面をかぶるのはなぜか、あるいはクマドリなどの非人間的な化粧を必要とするかとか、なぜわざわざ人形を作って芝居をさせるのか、とか、交流のなかった複数の国、地域のどこにも人形劇、紙芝居の類がかならず登場するのはどういうわけか、とかそういうはなしになる。その答はたとえば、「神の国とか、異境とかここにはない不思議な世界を現出させることが必要だった」とか、「われわれに遠い世界を垣間見せること」とか、「イデア界の表出」とか。あるいは、能面のように抑制することでより強烈な表現をすることとか、瑣末な具体性をとりはらうことで本質を抽出するとか。象徴表現というやつである。ハレの世界-異世界はケの世界-日常世界と同じじゃダメであろう。
アニメというのは本来生命のない絵や人形が作者・演者の感情移入によって生命をもってくるあたりが呪術的、ただしく「アニメイト」なのであろう。それゆえCGは技術がこうじてホンモノソックリになればなるほどつまらなくなる運命にある。それがCGである、と明らかにわかったうえでないとすばらしいCGではありえない。文楽では操手が顔をまるだしで姿もまるみえで全然問題ないのはナゼか、ということが示唆的である。人形はすでに人形の世界をもっているのであって、それが人間世界と錯視される必要なんかまるきりないということが端的に証明されているわけだ。ようするに、『現実の人間に似ているほどよい』とか『リアルであることは価値がある』とかそういう思い込みのほうが間違っているのである。
ところでリアリズムそのものは文学では19世紀後半になって、芝居では20世紀になってでてきたきわめて新しい流れであるが、その登場の初期には「なぜ、日常生活のイミテーションをわざわざ見せ物、読み物でつくらなければならないのか」を力説する必要があった。
いわく、「人為の芝居、読み物は作者の勧善懲悪の意図、読者への迎合などの産物であるがゆえに浅薄の俗物となる。しかるに自然には、人為のおよばぬ玄妙微妙の摂理があるがゆえに却って深い。」(註2)のだそうだ。つまり、現実は小説よりも奇なりってやつだな。この場合作者には現実のなかから、『深い』瞬間、あるいは光景を切りとってくるという仕事があるわけだが、現実をよくうつしているからよいというはなしにはならない。
つまり、リンゴやバナナの絵がリンゴやバナナそっくりだったとてそのこと自体には意味はない。ただし、その技巧は感心に価するかもしれないが。けれども ホンモノそっくりの芝居をみるくらいなら、最初から芝居なんか見ない。よって、「人形や絵がまるで人間のように動く」ってな種類のリアリズムはアニメにとっては限界なんかじゃなくて、夾雑物以外の何者でもありえない。
というわけで物語世界というバーチャルリアリティはそれ自体が一つの現実であり、それが何らかの現実に似ていることは、特定の技法としての効果はあるにしても必然性はないのであった。
で結局バーチャルリアリティってなんなのさ。
2004/2/12