イラクの日本人人質事件である。人質が解放されてしまってからどうも腑に落ちないのである。誘拐グループについては大した冷静さではある。例えば、米軍が爆弾をあちこちに落としていて、非戦闘員が一万人も惨殺されていていまも戦闘が継続している状態でその米軍を支援している日本に対して『いい日本人』と『悪い日本人』をわけて考えることができるというのは、怨恨や怒りにつき動かされた人にできるものではない。そういう殺された恨みという点では、ただアメリカ人であるとか、日本人であるというだけで、襲撃されることだっておかしくはない。それが「じぶんたちが間違った、この人たちは友人だ。だから、解放する」である。そういう方向にしむけた聖職者協会もたいしたものだが、自分たちの間違いを認めるというのは強靭な精神力を必要とする行為である。これができないために引込みがつかなくなって暴走するケースというのはめずらしくはない。よって感心するばかりなのである。
そうではなくて、腑に落ちないというのは日本政府の対応である。道義ないし、責任問題というよりは技術的な問題についてである。すなわち、誘拐グループの所在、構成、最終目的、などが明らかになっていない時点で要求には一切応じないと断言してしまうということである。これでは、「一切の交渉には応じない、人質は殺すがよい。その報復はする。」と主張したも同然である。
一般に誘拐の場合、足手纏いになる人質を抱えて犯人グループというのは気がたっているものである。さらに人質の解放はどこでどうやって解放するのか、解放後の人質から自分たちの情報が漏れて窮地に陥る危険はどうするのか、といった問題がある。営利誘拐の場合、しばしば身代金をうけとった後人質を殺してしまうのはそうしたところである。この場合そうした行為に対して厳罰を課すのは意味がない。逮捕の後を心配するくらいなら、最初から誘拐などしないか、せいぜい逮捕を免れるための努力をするだけである。
したがって、本来言を左右にしつつも相手方の要求に応ずるかのごときそぶりを見せ、他方で犯人グループに関する情報を収集しかつ接触の機会を可能なかぎり持とうと試みる。そうすることで人質の安全をはかりつつ、犯人グループの逮捕をめざすわけである。
ようするに時間かせぎをしながら搦め手から迫るというのが常套手段というものである。組織力、資力に乏しい中小グループは長期戦となればかならず疲弊するものである。 ところが日本政府は当初からいっさいの要求には応じないと言明してしまった。これでは犯人グループとの回路を断ったも同然であり、もともと人質殺傷の肚づもりがなかったとしても引込みのつかない場所に追い込む危険性が高い。
これらを総合するに当初から日本政府には人質を救出しようとか人命尊重とかいう意図が希薄で、それよりは寧ろ、アメリカに対するパートナーシップを喧伝しようと考えていたものだと思われる。
これ自体はこれまでの小泉内閣の動きからはスムーズにつながることで何ら驚くにはあたらないのかもしれないけれども、あらためて現実となってみるとこの国家はもはや邦人保護とか、国民の生命を守るとかそういうタテマエそのものが希薄になっているということが端的に証明されているようである。役には立たなくても、アンパンを差入れにいった首相のほうがよほど立派に思えてくる。
いまタテマエとしての日本政府はいったい何のために存在しているのだろうか。社会契約とか福祉国家のタテマエはどこにいってしまったのだろうか。これではわれわれが日本政府の人質にとられてしまったようである。
2004/4/17