ayya #12 日本の成立ちを巡る嘘

1 日本はいつ日本になったのか。

  よもや神武天皇の東征によって日本が建国され、その建国日が2月11日と思っている人も少ないが、それではいつ日本が登場したのかというと知る人は多くない。もちろん諸説あるわけだけれど、天武天皇の飛鳥浄御原令(689年)からで、対外的には702年、周の則天武后への使者がそれまでのヤマトにかえて、日本と名乗ったのが最初だそうだ。そして、オホキミに変えて天皇の称号を使いはじめたのもこの天武天皇かららしい。それ以前のヤマトは倭国と呼ばれていて、自らも大倭(だいわ)と名乗っていたのだけれど、この倭という字があんまり良い意味の文字じゃないので、大和(だいわ)と名乗ったりもしていたらしい。で、武后が唐に変えて国号を周に改めたタイミングにあわせ国号を日本に改めると宣言したところ、受容されたのだそうだ。

  というわけで、天武天皇以前に天皇はいないし、日本もなく、ここが日本史の始まりなのだそうだ。

2 島国根性という嘘

日本は周囲から海で隔てられ、孤立した島国であり、そうした閉じられた世界で日本国の下に長期間にわたって生活してきたがゆえに、日本は均質・単一な民族となったので、他民族からはたやすく理解され難い独自な文化を育てる反面、「島国根性」といわれるような閉鎖性を身につけることになったという"常識"もいつごろからか日本人に深く浸透している。
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少くとも半分は「神話」といってよいほどに列島の現実からかけ離れたこの見方が、虚像であるとともに、なぜこうした"常識"が日本人にかくも深く浸透したかを考えることも、当面の大きな課題の一つとなろう。それは、海に視点をおいて人類の歴史を考え直す、という現在とくに注目されはじめている問題にも応えることになるであろう。 さらに海を通じての東西南北の諸地域との、長年にわたる人とモノとの活発な交流を 通じて、列島の諸地域にはそれぞれ独自な個性が形成されてきた。これについて立ちいって考えることも重要なテーマであり、とくにフォッサ・マグナの東と西では、社会の質が異なっていると考えられるほどの差異がある。「日本社会が均質である」などというのも、まったく根拠のない思いこみといわなくてはならないのである。

 [日本の歴史00巻日本とはなにか]

日本列島に住んでいた人々は船に乗って海を渡り、いろいろな品ものを交易し、移動していた。それは縄文人もそうだし、後のアイヌも、オホーツク人も、弥生人も、そして倭人も日本人もそうであった。海は障壁ではなく、道であった。また、ヤマトの他にも王権はあったし、服属しつつも独自の権力と生産・統治をしていた地方もあり、ヤマトに服属していない地方もあった。

済州島から霞浦へ至る海の道。江戸時代からオーストラリアへ真珠採りにいっていた紀州潮岬の海民、毎年黒潮に乗ってヴァンクーバーへ打瀬舟でいく伊予の海民。1613年すでにリマで暮らしていた日本人20名。こういうのは「少数の例外」などではなかったのですねえ。

3 日本人は稲作民で、主食は米という嘘

律令国家は、全国に班田をおき、人民を稲作農民として統治しようという強い意欲をもち、米を貢租の基本にしたい気持はあったけれども、全国で水田をつくれ、米を収穫できるところはたかがしれていた。そんなわけで、租は収穫のわづか3%で、たいていの場合よそから手にいれて貢租したものらしい。かくして貢租の中心は調におかれざるをえなかった。

中世の荘園にいたっても、米を年貢としていたのは38%ほどで、あとは鉄だったり、材木だったり、海産物だったりする。江戸時代になり、洪積台地に住んでいた人間が沖積平野におりてきて新田開発がなされると米作はたしかに増えるけれども、それでもその比重はせいぜい40%ほどだったらしい。

そういえば、豊作てのは五穀豊穣、アワ、キビ、ヒエ、ムギ、コメ、小豆、大豆が全部とれることだったし、麦縄(ウドン、ホウトウ、キシメン、ヒヤムギ、etc)は全国にさまざまの形状であるものだった。アワ、ヒエってのは食べたことのない人に限ってまずいとかいうけれども、ほんの数十年まえまでは普通に食べられてたしね。いま買うとすごく高いけれど、結構うまいもんではある。

4 それ以前の江戸、鎌倉。

鎌倉については頼朝が幕府をおくまでは『海人野叟(やそう)』のほか住むひとも無かったと『吾妻鏡』にあり、そのように思われてきたが、これは頼朝の事跡をきわだたせるための虚像であったことが明らかになったそうだ。鎌倉は三方を海に囲まれた要害の地であるだけでなく、鎌倉郡の郡衙の所在地であり、海上交通の要津として早くから都市的な場が展開していたらしい。

江戸についても事情は同じで、荒れた葦原の貧しい漁村が家康の卓見でもって、大都市に発展したかのように思われがちだが、関東の河海、常総の内海、武総の内海を太平洋の航路に結びつける要津としておそくとも平安後期までには都市的集落として発展していたそうである。

今回の典拠はすべて上掲本。

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