青森とはいうものの西半分の津軽は東半分の下北、上北、三八の南部領から戦国時代のどさくさに独立した経緯もあり、南部人と津軽人というのはいまだに酒が入ると互いの悪口をいいあうそうである。江戸時代には南部・津軽というのはほぼ臨戦体制にあったらしい。番屋を構え、「ヒト・モノ・カネ」の出入りを監視していたという。そうしてその二藩の藩境がこの野辺地にあって、それは二つの土の小山になっている。幅50cmほどの川を越えると反対側にも二つの山があり都合四つの山が川を狭んで長方形を形成している。なんだか互いに「ヘンッ」とでもいっているような津軽・南部である。
5500年前というからエジプト文明とほぼ同時期に巨大木造建築物を作り、大集会所を作り、沿海州や満州、シベリアとも交易していたらしい縄文都市である。巨大木造建築物は直径1mのクリの木6本を柱とし、高さ20mほど、物見櫓か、祭櫓か神殿かはたまた灯台か。司馬遼太郎は海港都市丸山を沖合いからも示す灯台だろうといっていたが。巨大な竪穴式の住居もいくつもあり、最大のものは長さ32m、高さも内部で3m以上あり殆ど大講堂といった風情である。さらに高床式の倉庫群が立ち並び、小型の住居にいたっては1000棟ちかく発見されておりしかも発掘はまだまだこれからとのこと。とりあえず2000人以上の都市であったのは確実らしい。さらには琥珀、翡翠、が遠方より持ち込まれ漆の生産の跡があり、海上交易、生産技術とも高度の文明を有していたらしい。詳細はそのての本が各種出ているのでそちらに任せるとして、お盆休みということもあってか大量の訪問者が引きもきらずやってきてはあちこち見聞している。その駐車場には大量の自動車がとまっているけれどほとんどが青森ナンバーである。よくみると数人づれのパーティーがおおくいて必ずやあれこれ解説するおじさんおばさんがいらっしゃる。どうやらこの遺跡県内のファンが大ぜいいて知り合い友達を連れこんでは見せびらかしているようである。その意味では青森県はちょっとした考古学ブームといった体をなしている。なお、展示室では発掘物のみならず再現された縄文衣料の試着がおこなわれ、体験学習館では勾玉、縄文紐などの体験製作教室が開催されていた。
遮光器(北方民族のサングラス)土偶でおなじみの亀ヶ岡遺跡のある木造ではみんな遮光器土偶が大好きらしく、JR木造駅にも巨大な土偶が鎮座ましましていた。のみならず、広報掲示板にまでも威容を誇る遮光器土偶であった。御丁寧にもオリジナルに従い、左足が欠損している。丸山遺跡から出土した土偶もすべてどこかが欠損していて土偶というものは壊すために作るものようである。儀式の盃のようなものであろうか。駅からほどなく、果物屋があり、スイカが地面にゴロゴロと置いてある。直径20cmほどか。えらくうまそうであったので、店のおじさんに聞いてみた。
「コレ、ナンボ?」
「ンシャクウェ」
「ヘ?」
「ンシャクウェ」
やはり御年配のかたの言葉はそう簡単に聞き取れるものではないようである。 『○百円』ということらしい。○の部分は一音であるから五か二であろう。 ええい南無三、千円札を差し出したら八百円返ってきた。 駅隣の公園でムシャムシャと喰ったらやはりえらく旨かった。当地名産らしい。 そそくさと件の店を再訪し、もひとつ買った。
国道102号に沿う旧道に突如城址が出現、失なわれた黒石城かと思うてよくみると田舎館城とある。立ち寄ってみると田舎館村役場兼文化会館である。入ってみるとほんとうに役場であった。ついでに天守閣に登らせていただき、麓を見てみると黄色、茶褐色の稲を使って「稲文化のむら、いなかだて」と田んぼに大書してある。ここは弥生遺跡、稲作のあとが発掘されたそうである。隣には歴史民俗資料館があった。 稲文化おそるべし。
2001/08/22,23