ayya # 40 ケネディの30年戦争

  1991年湾岸戦争に勝利したブッシュ大統領(親父)は、「これでわれわれはベトナム戦争の後遺症を脱した。さあ、ケネディの30年戦争をつづけよう。」といったそうである。

  『モンの悲劇 暴かれた「ケネディの戦争」の罪』 竹内正右、毎日新聞社

  なんか大国の大統領ともあろうお人があまりに不用意な発言なのでウソくさいが、典拠の本にもどういう状況で誰にいったのか書いてないのでその程度の信憑性しかない。けれどもケネディという人は1961年に大統領になるや1963年には暗殺されてしまった人である。その人の30年戦争というのはどういうことか。

  JFケネディというお人については我々の世代ではキューバ危機をホットラインでフルシチョフとの話し合いで冷静に処理し、その後のデタント緊張緩和、平和共存へと導いた人というふうな習い方をしたが1992年に当時の機密書類が公開されてみると実はそうではなかったということが

  テレビ NHKスペシャル キューバ危機
  十月の悪夢−1962年キューバ危機・戦慄の記録− (NHKスペシャル、1992)
  書籍 「十月の悪夢〜1962年キューバ危機・戦慄の記録」(NHK取材班:NHK出版)
 

  で発表された。

  なんでも、ケネディとその閣僚はおよそ譲歩ということができず、核戦争にむかって突進し、核戦争の決定もしてしまっていたということである。そうしてその実行にはいる殺那、手違いからこれが結果的に回避されていたこと。結局「大人の判断」をし、自らババをひいたのはフルシチョフだったこと。彼はそのため権力の座から滑り落ちるハメとなったこと。とはいえカストロはギリギリでのソビエトの譲歩に烈火のごとく怒ったこと。などが紹介されていた。

  というわけで、わたしは1965年の生まれだが手違いとフルシチョフの決断が無ければこの世に生をうけることもなかったわけだ。その後ケネディのほうはというとベトナムへの介入を深め、戦力を投入していきベトナム戦争の道をひたはしることになる。一度世界を滅ぼしたあともまだ懲りてはいなかったらしい。わたしは暗殺というものに賛同したりはしないほうだが、彼を撃ってくれた人にだけは感謝したい。わたしの今日あるのもたぶんキミのおかげだ。

  さて前出の竹内氏によれば、ケネディのニューフロンティア政策とはようするに核兵器による軍拡競争は相互抑止で事実上戦端が開けなくても局地戦闘や代理戦争は可能であり、そうした限定戦争に軍事的に勝利していくことが自由世界すなわちアメリカの覇権を守り、広げていくことになり、逆にどこか一箇所で敗北することはドミノ式に全面的な頽勢につながるということである。

  いつもの『世界の歴史 29 冷戦と経済繁栄』中央公論新社では、それは外交戦略では大量報復戦略から柔軟対応戦略への転換という形であったという。つまり、核戦争には核戦争で対応するが、通常兵器による戦争、ゲリラなどによる政府転覆運動にはそれに適合する軍事力で対応するというもので、このため核戦力、通常戦力ともに増強され、加えてゲリラ用の軍事力も整備されることになったそうである。

  みかたによってはこうして「スーパーパワー」から後の「双子の赤字で経済停滞する病める大国」へと向かう道筋を敷いたともいえそうである。今日からみれば失政のかぎりを尽したともいえるがそれはあくまで結果論であり、当時のアメリカ人にはこの人が希望と見えたようで大統領支持率は高く、これに匹敵する支持率をマークしたのはブッシュ大統領(子)くらいなものであるらしい。

  さて件のケネディの30年戦争である。ベトナム介入戦争について公式には「ラオスには戦闘行為はない」と発表していたケネディ政権だが実際にはラオス全域で対北ベトナムの戦闘を展開しており、現地徴用兵として山岳少数民族のモン(中国名は苗族)を使ったという。モンじたいが少数民族として扱われることさえなくラオ族からは山中の蛮族とみなされていたこと、アヘンに犯され極度の貧困状態にあったこと、ジャングルのゲリラ部隊としては抜群の能力を有したことなどが災いし、米軍の捨駒として死地にはきまって投入され、数十万におよぶ被害をうけたらしいが正確な記録には欠ける。しかし、彼等の犠牲がなければアメリカ兵の犠牲は5倍にも6倍にもなっていたろうという。

  こうして米軍に従軍したため、ベトナム戦争後、ラオスにもベトナムにも自らの居住地を失なってしまったモンの一部は米国内に居住することになった。その数16万人という。しかし、米国型の生活に不慣れなうえ、米国流のアジア人排斥にも会い、孤立状態であった。これに傭兵の仕事を与えたのはレーガン政権である。

  1979年のニカラグア革命がおこると米国はこれに干渉、コントラ軍を編成、武器・資金を供与して武力攻撃を加えさせていた。ここに国内では厄介者となっていたが、ジャングルでのゲリラ部隊としては折り紙つきとなっていたモンを投入した。モンとしてはほかに仕事とてなく食いつめてもいたのでこの仕事に就くものが多かったという。まさに適材適所といおうか、無論正規軍ではないので傷病・退役による恩給は出ない。

  1990年に東西冷戦が社会主義圏の崩壊とともに終了したあともケネディの戦争は続く。つぎの戦争目標はテロリスト、テロ支援国家である。さしあたっては、リビア、イラン、イラクあたりがターゲットとなった。それが戦争という形で結実したのが湾岸戦争であった。ようするにアメリカとその覇権に対して脅威となるもの、そうなる可能性があるものには攻撃を加えずにはいられないか、もしくは攻撃を加えるためには敵を創出することが必要なのかは定かではないが、かくて今日もケネディの戦争はつづいている。

  ところでケネディには名文句というのがある。 「国が諸君らに何をしてやれるかではなく、諸君らが国のために何ができるのかを 考えたまえ。」だそうである。

  誰かこいつに社会契約って何か教えてやってくれい。

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2001/11/26