ayya # 060 寛永の飢饉と算盤武士 (前編)

  寛永十九年(1642年)二月、大老酒井忠勝は国許の家老たちから驚愕の知らせを受けとった。近江高島郡の所領で前年末から大雪が降り、菜や大根はもとより葛、蕨なども積雪のしたになってとりようがなく、馬の飼料はもとより、村々の百姓たちが十人、二十人と飢餓に及ぶほど切迫した状況である。備後さま(忠勝の子、忠朝)へ断ってから代官を呼んで様子を聞き、少々扶持を与えるように指示した、と。しかし、忠勝の返事は激しいものであった。

  どうして百姓が飢餓に及ぶほどまで放置しておいたのか。代官から事情を聞くのになぜそんなに手間取ったのか。百姓を一人でも餓死させたならば、それはお前たちの責任である。こんなことはめったにないことならだから、三人の年寄のうちひとりが現地へいって指揮をとるとか、郡奉行を派遣するとかすべきところ、備後さまの意向を伺ってからとか、代官を呼んで聞いてからとか、どういうことか。金銀米銭を蓄えているのは、このような時のためである。他藩はともかく、我等の領地から一人でも餓死者を出すことは決っして許さない。熊川にある蔵から米を運べばいいし、馬で運べないなら、徒歩人足に背負わせても運べ。(中略)米の三千石や五千石は、お前たち三人の領知を没収してでも何とでもなることだ。

  島原の乱がおさまってまもない1640年から全国的な異常気象、大凶作、飢饉が現実になる徴候はあったのだが、いかにも大慌てである。しかし、自分の領地で百姓が餓死するというまでの事態を予想できていなかった忠勝は「肝をつぶして」大慌てである。島原の乱では民政の失策が大乱となり、その責任を追及されて、島原領主松倉勝家は領地没収の上、斬罪。天草領主、唐津藩の寺沢堅高も所領のうち天草没収の後自殺においこまれている。法令のうえでも寛永十二年(1635年)武家諸法度第十四条「国郡衰弊せしむべからざる事」に抵触し、飢饉となれば餓死者、乞食の三都流入、領外逃散であきらかになってしまう。自領の実高が落ちこむばかりではなく、へたすれば改易、死罪もありうるのである。

  さて自身が能吏でもある忠勝は即座に

  1. 種籾を食べてしまって、作付できない村もあるだろうからよく調べるように
  2. 今年の麦作がだめであれば、秋まで百姓はもたないであろう、夏には米相場が高騰するだろうから、大津の蔵米は売り払わないように
  3. 北国筋も同様で、城下町小浜へは北国米は入津しないだろうから、秋の収穫までは酒造や豆腐・麺類の製造は抑えるように

と細かい指示を出し始める。

  しかし、異常気象はつづき、二年つづきの凶作がはっきりしてくる。忠勝は正月から三月にかけて増加する飢人に対応するべく小浜・敦賀・高浜などで粥の施行を行うこととした。その粥のつくりかたは

  稗一斗六升を粉にして六升四合、麦八升を粉にして四升八合、荒め・干菜・きょうぶ(令法)などを刻んで一斗四升、塩四升、これに水一石四斗を入れて炊き、粥五百杯分、(一人一日二食とすれば)二百二十人分の養いになる。

  とし、たとえ二千人に一日二食、百五十日間(六十万食)粥を食べさせても、銀に換算して三十貫か四十貫たらずの「僅かなる事」であって、それよりも餓死者が出たり、身売や他国へ乞食に出たりすることが「世間の取沙汰(噂)」になれば、それこそ藩主の「仕置」責任が問われるのだ、と述べる。


後編へつづく

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2002/10/26