この頃になると、忠勝の対策も体系化されてきて、「国中餓死の仕置」と「来春不作にならないための仕置」、つまり領民の生命維持と百姓経営維持という二つのレベルを明確に区別し、その対象者を三種類にわける。
これらの対策のため、忠勝はつぎのような費用見積もりを提示する。
忠勝自身の試算では寛永十九年の年貢高は十八万一千四百四十四俵であるが、十二月五日時点で六万俵が未進、翌年二月時点では二万俵あまりの未進であったから、収入はほぼ十六万俵。家臣団への支給分七万五千俵をさしひくと藩収入に占める比重は40%に上る。二月時点で年貢予定高から未進分を除いた残高から今までに支出した家臣団支給分や経常支出、および国中種借・扶食・借米などを引き、さらに今後十月までに家臣団に支給する分を引くとどれだけ残るかを計算して書付を出すように指示している。小浜藩ではこれを契機に予算制度が成立してくることになる。
ところがこの間、国許の年寄どもが相談しても役に立つことはひとこともいってこない。土免(農民の作業意欲を引きだすための定免法の一種)の実施についてその善悪を具体的に検討して報告せよ、といっても「それで問題はない」というだけで具体的検討は何もなされない。粥施行に来る飢人が増加して困るというが、多いといってどのくらいになるのか、その場合どれだけの費用がかかるのかといった見積もりも、今までいくら使ったのかについても数値がわからない。
ようするに状況を調査し、それに迅速に対応する処理能力、政策を具体的に立案する能力、そのための費用見積もりをして予算をたてる能力、そうした実務能力、行政能力が求められていたのである。しかし、旧来の年寄たちはそうした能力には乏しかったようである。
幕府においても他藩においても同様の飢饉対策とそのための藩政改革がなされることとなる。つまり寛永の飢饉は戦争と軍事のための軍事集団が「撫民仕置」つまり民政を基本に組み込んだお役人集団へとさまがわりしていく契機だったということである。
島原の乱がおわり、武士にとって時代は刀剣の時代から、算盤の時代へと変化していくことになる。それは泰平の世、百姓がむざと殺されはしない世の中になったことを意味するから、実に結構なはなしではある。
ネタ本は『日本の歴史16 天下泰平』
2002/10/26