ayya # 062 応永の蒙古襲来のうわさ。

  1419年(応永26年)6月三軍都体察使(さんぐんとたいさつし)李従茂(イジョンモ)を総司令官とする朝鮮の大軍は巨済島から対馬に向けて出発。兵船二百二十七艘、将兵一万七千二百八十五名、六十五日分の食料を積載していた。この大軍による対馬での戦いを応永の外寇、韓国側ではこれを己亥東征という。

  『日本の歴史 14 周縁からみた中世日本』

  倭寇の根拠地とみられていた対馬を軍事的に制圧するためである。ところで朝鮮側の史料にしばしば、「倭人」「倭寇」「倭賊」という表現がでるけれども、これは対馬や壱岐ないし、対馬海峡から、黄海、東シナ海海域に生活する人々であったようである。それは日本人でもあり、朝鮮人でもあり、中国人でもあり、またそのどれでもなく。一方、九州やさらに朝鮮からみて遠方の日本人については「深処倭人」または「日本人」と区別する傾向にあったそうである。

  さて、この対馬侵攻にさきだって朝鮮の太宗は倭寇に対し天罰を下すべく征討することを宣言。その中で、対馬は「もと是れ我国の地」であったが、辺境であったため倭人に占領されたとしている。つまり、対馬について倭寇の占領地とは見ていたが、日本の支配領域とは考えていなかったのである。軍事作戦が決定したとき対馬からの使節は機密保持のため全員が拘束されたのに対し、九州節度使(九州探題)渋川氏の使節は歓待され、対馬征討の説明を受け無事帰国している。一方室町幕府のほうはというと、翌年には朝鮮の使節が九州探題のもとに派遣され渋川親子はこれを歓待していて、抗議した形跡はない。けれども、室町幕府が明に対し断交した直後のことであったため、この事件は蒙古襲来のような恐怖の噂として京都に伝わったという。

  さて、征討は成功裏に終了し、朝鮮政府は対馬島主を始め海賊の頭目にいたるまで、その地位に応じて官職を、そのほかの島民には土地を与えるという条件で、全島をあげて朝鮮に移住せよ、それがいやなら全員本国に帰れ、という条件を出した。つまり、対馬は朝鮮内の無人島で、どこからか来た「倭人」が占拠しているという理解にもとづいている。この強硬な方針をつきつけられた島主宗貞盛は「私は一族のなかで守護の地位を狙うものがいるために島を離れることができない。もし、貴国内の州郡の例によって我が島の州名を定め、印信を賜ることができれば、朝鮮の忠実な臣となります。」と伝え、島民の対馬居住を条件に朝鮮への帰属を受け入れ、島主印信の下賜を求めた。それに応じて朝鮮政府は対馬を慶尚道の管轄にいれることとなった。

  さて、このまま事態が推移すれば、対馬はそのまま朝鮮の領内となったわけだが、そのあと交渉によって対馬は日本の領域であると朝鮮側が認識するようになり、土地領有に関しては守護として室町幕府に属しつつ、領域外の臣下として朝鮮国王に臣従することとなった。それでも、朝鮮側の感覚として対馬は自国内という観念があったらしく、1530年ころの古地図『八道総図』では対馬が領域にはいっている。 イメージ『八道総図』

  なんとなく現在の我国の地図で、サハリン島の中央や、千島列島のさきっぽとカムチヤツカ半島の間とか、ウルップ島とエトロフ島のあいだにはいっている謎の赤いラインを思わせるはなしである。そんなところに国境はなかろう。

  さて対馬の宗氏は陸の権威を室町幕府に保障してもらいつつも、交易に関する海の権威を朝鮮国王に保障されて繁栄することになる。朝鮮国王からは「文引」の発給権をうけている。文引とは渡航証明書のようなもので、入国査証の役割をはたす。西日本各地から朝鮮に向かう船は宗氏の文引を得ない限り、海賊船として朝鮮では接待を拒否されるのである。このとき文引発給に伴う手数料は宗氏の収入となる。つまり、宗氏は朝鮮の在外公館の役割を果たしていたのである。

  ところで、博多から、壱岐を越えて対馬までは結構な海路であるけれど、対馬から対岸の釜山までは50kmほどで達者な人なら泳いでも渡れるという。

[前へ] [次へ]
[Home] [目次]

2002/11/14