以前、『#27 代表と課税 』で、
つまりそれが排除ということである。
その際に加えられる蔑視もパターンで「キタナい」「コワい」「ナマケものである」「昼から酒を飲んでばかり」「計画性がない」「犯罪者集団である」「約束を守らない」「時間にルーズ」「責任感がない」などなど、アフリカ系の人であろうとユダヤ系であろうと中国系、インド系、ロマ系みんなこのての偏見を加えられ、そうして困ったことに屡々それが証明されてしまう。排除と抑圧は人にそういう属性を付与するようである。むやみにヒドい目にあわされてはマジメにコツコツもやっちゃいられまい。
と書いた。差別されるひとびとというのは、どの民族、エスニック集団であろうとこの種の似たような属性を付与されること。そして、それがそういうケースばかりが強調されるにしろ、差別する側にある同じ傾向は集団の属性としてはなぜか無視されるにしろ、ときおりあるいは頻繁に実際に観測されること。その意味では「いいがかり」ではあってもその根拠はないわけではない。かくて「やっぱり」というセリフとともにイメージが固定されていく。
「犯罪者集団」あたりは原因と結果または被害と加害があべこべで被差別の側がしばしば被害者であったりする。黒人による白人への暴力よりは白人による黒人に対するそれのほうが圧倒的に多いし、「浮浪者」による「定住者」への暴力よりはその逆のほうが圧倒的に多いのだが。にしても犯罪は発生するし、警察の見込み捜査の結果もあって逮捕もされてしまう。冤罪も多いのだが、控訴・上告する経済力と根気がないので身の不運とあきらめてしまい結局罪が確定したりする。「くさい」「きたない」あたりは人間を清潔に保つというのは費用のかかることだから、貧民がそうなるのはあたりまえである。「ナマケモノ」「昼間から酒」は不安定な就労形態を余儀なくされる結果当然といえる。ただし、こうした生活形態あるいは経済状況は熟練・技術修得の機会も奪うからこのことはさらに再生産されることになる。
というわけで、このての「すぐ怒る」「やることが出鱈目」「短慮」といった行動様式は血統というよりは貧困状態にある人々のおくる生活様式が密接に関係しそうである。その点では一方では「逆差別」とか「経済面偏重」とか「本質の隠蔽」とか「結局土木工事がしたいだけ」などと批判のつきなかった同和事業-地域改善事業であるけれど 、それでも相応の意義はあったのだろう。
さて、同和問題、あるいは部落差別の現在がレポートされている本に講談社文庫『被差別部落の青春』(角岡伸彦)がある。そのうち1980年代の記録としてつぎの記述がある。
職場の先輩を通して、部落と部落外の子育ての違いにも気付かされた。
〈よそから来た保母はムラの子と接っして「なんて子供らや」とまず思うわけ。言葉もきちんとしゃべらんし、しらこいし、大変やと。離乳食も与えられてへんし、おむつとらなあかん時期も、歩行も、とにかく子供の成長を促すための教育がちゃんとおこなわれていないっていうわけよ。あたしは言われていることがチンプンカンプンやった。こんなん普通やんと思ってたから。
親のしつけについても言われた。二歳になったらしゃべらなあかんのに何してるの、ここの親はって。あたしはえーっうちの子らて大変なんやー。ほなら横井の子はどないなるねん思て。中学生になって荒れるとか、そういう問題ちゃうねん。この年齢で大変やねんて気ィついた〉
子供がどのように育つかは、ムラの住環境や食事、仕事などとも密接に関係していた。〈子供は親も環境も選ぶ術をもっていない。ここらへんで子供を変えなあかんとか、保母やって見えてきたような気がする。子供がハイハイして歩くことができる家。住環境とはこういうことを言うんやなあと。
保母の側の教科書的発想と態度がいかにも1980年代である。教科書からハズれることを極端に恐れるのである。いまとなっては三才までオムツしてようが、ハイハイができなかろうが大した問題ではなく「個性」のひとことであろう。しかし、乳児・幼児期の言語的訓練が決定的におくれるのは発達に何らかの影響があるかもしれない。原因と結果を複数つなぎあわせるというワザはそれなりの訓練を要するし、そもそも語彙がなければ思考そのものが困難になる。
しかし、さらに食生活はそれ自体が直接に発達と気分に影響するのみならず、体格や病気は気質そのものを変化させる。
食べることに関してもあたしは普通やと思てたけど、ほとんどの子が特に野菜を食べへんかった。ムラの子らは全部飲み込むねん。噛むことができひん。そもそも食べてるもんが、おかいさん(おかゆ)にうどんに汁かけごはんやねん。保育所の看護婦さんが噛んでへんから脳の刺激が弱いんです、とか教えてくれる(同和保育所には看護婦さんが常駐している)。それ聞いてふっと思った。あたしが食べてきたもんも、おかいさんにうどんに汁かけごはんやろ。あと好き嫌いが多いって言われるけど、ちっさいときにいろんなもん食べてへんやん。食べるもんが選べるほどなかった。親は自分が食べてたもんを子供にやってるだけ。ごはんだけ食べてくるとかな。看護婦さんに「それ、何悪いん?」て聞いたら「だって佐代子さん、ごはんにはみそ汁でしょ」って「うっそー、うちみそ汁飲んだことないわー」って言うたら「どうしてーっ」って聞かはる。今はあたしもみそ汁炊くで。
そういうことを看護婦さんや先輩の保母さんから聞いえ今度はあたしが親に指導するやん。。「お母さん、パン食べさすときは牛乳飲ましてよ。スナックパンはあかんよ。チョコレートパンもダメ。ごはん食べるときは卵焼きだけと違て、みそ汁も炊きや」って。ほなら親に怒られてな。「うちらに何せえ言うんや!うちら朝飯も喰うたことないのに。先生、自分振り返ってみ、朝飯喰うて学校行ったんか!」。ほんまや、いまだに朝飯食べて来えへんわ。親は朝起きたら仕事にいっておらへんわけやろ。うちらそんな習慣なかってん。〉
確かに咀嚼運動が脳に及ぼす影響というのはよくよくいわれることではある。柔らかいものばかり食べていては顎も発達しにくいであろう。もちろんこうした環境で育ったからといって、誰ひとり例外なく心身の発達を著しく阻害され、結果として短絡的な人間となる、というわけではない。天才も現れるだろう、立派な人はもっと現れるだろう。厳しい環境に鍛えられたひとも出現するに違いないし、人間的に魅力に富んだひとはいくらも出てくるに違いない。だいたい、この保母さん自身精緻な観察眼を発揮していらっしゃる。それでも進学率とかテスト結果などという数値をマスとして採った場合、差は大きく出ることになる。こういう条件の不利さは捨象されて、結果のみを取って「やっぱり××のもんはアカン」とか、「機会の平等は保証されているにもかかわらず、能力が不足しているのだから仕方がない」なぞというイワレカタをしたりする。
きちんと話す機会が少ないこと。野菜やビタミン、鉄分、カルシウム分、といった栄養分の不足。朝食を抜くこと。ごはんがわりに菓子類を食べること。こういった問題が「短気で怒りっぽい。行為における持続力、忍耐力がない。落ち着いて物事を考えられない。何事にもルーズ。」などと評される性格の形成に一役買っていたのであろうか。
とはいうものの、人がマジメに怒っているのに「あんたカルシウム不足やろ」といわれたりするとこれはさらに憤概せざるを得ないはなしではある。
ところで、NHKスペシャルによれば、現代の子どもの50%が栄養不足だそうである。カロリーは充分なのだが、糖質および脂質にあるいはタンパク質に偏重しており、鉄分、カルシウム、ビタミンB1、C、E、K、といったあたりが不足なのだそうである。偏食というやつでごはんそのものをちゃんととらずに菓子類、ジュース類をとり過ぎていたり、ごはんを食べていても野菜の摂取量が極端に少なかったりといったわけだそうである。
なんだ、こういうしかたで平等化が進展していたのか。
2003/8/26