ラス・カサスはドミニコ会の聖職者である。スペインのインディオに対する征服・支配の現実つまり搾取と奴隷状態の現実を『インディアスの破壊についての簡潔な報告』として出版、国王カルロスの心を動かし、「インディアス新法」の制定にこぎつけた。もとよりラスカサスにとって満足いく法令であったはずもなく、インディオの奴隷状態の即時撤廃を訴えて「新法」補足・修正をもとめてゆかねばならなかった。
そんなおり、セプルベダ博士はラスカサスを「異端の疑いあり」として告発する一方、「スペインによるインディアス征服戦争は全面的に正義であるという主張を行った。ふたりはついにバリャドリッドで論争を行うこととなった。
セプルベダ博士は言う。インディオは偶像崇拝者であるがゆえに、戦争を仕掛けるのは正当である。またインディオは人間を生賛に捧げ、人肉を食らう野蛮人であるがゆえに戦争を仕掛けてもよい。偶像崇拝の罪に堕ち、最善の神であるキリストの信仰を知らないインディオは自然の法を犯しているのである。もしインディオがキリスト教徒の支配を拒否した場合、自然の法に背いた罪を理由にスペイン人がインディオを滅ぽすのは当然である。真の宗教を奉じるスペイン人に征服されれば、インディオは慈悲心や文明を身につけ、魂が救済されるのだから、むしろ大きな恵みを受けることになるであろう。
これに対してラス・カサスは反駁する。キリスト教の歴史において、いまだかつて偶像崇拝のゆえに異教者が罰せられた事実はない。教会は、ひとたびキリスト者となったものを裁くことはできる。しかしパウロの言葉にも「外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか」(コリント人への第一の手紙、五章、一二)とあるとおり、未信者のインディオを裁くのは神の業である。スペイン人がインディオを裁くのは、神の権限を横取りすることであるといわねばならない。一度もキリストの教えを耳にしたことがなく、ましてやキリストの信仰を受け入れたこともないインディオを捕らえて教会は、不信仰のゆえにこれを罰することはできない。さらにいうなら、インディオが偶像を真の神と信じているのは、キリスト者がキリストを真の神と信じているのと何ら変わるところはない。人間の宗教行為として自然なあり方であって、そこに何らの罪も認められない。キリスト教の存在を知らたいインディオを、偶像崇拝ゆえに無知無能だと諺ることはできないのである。
しかるにセプルベダ博士は言う。インディオは生まれつき劣等で無知無能である。それに比べてスペイン人はすべて徳に優れ信仰に厚く、歴史が証明しているとおり勇敢で悪習や罪を離れた人々である。したがって思慮分別、才能、あらゆる徳や感情面ではるかに劣っているインディオにスペイン人が戦争を仕掛けるのは正当である。ただし、まず戦争の布告を行い、真の宗教であるキリスト教に帰依してスペイン国王の支配を認め、スペイン人の与える恩恵のもとに優れた法律と慣習を学ぶように勧告する。もしスペイン国王の支配を拒否して反抗的な態度に出るときは、スペイン人からの攻撃を覚悟せよと知らしめる。まず武力によって征服してスペインの支配権を受け入れさせ、しかるのちにキリストの真の信仰を教えるのである。インディオを服従させて障碍を取り除いておけば布教への妨害も少なく、はるかに安全かつ迅速にキリストの教えを広めることができるのは明らかである。であればキリスト教の布教のため、まずインディオに戦争を仕掛けてこれを服従させるのは正当な行為ではないか。それにまた、スペイン人に征服されることによってインディオには戦争の害悪を補って余りある大きな善がもたらされる。たとえば金銀は、インディオには価値のない金属である。そのかわりにスペイン人から鉄を手に入れることができる。鉄は生活において金銀よりもはるかに有益であり、鉄さえあればインディオは快適な生活が送れるのである。したがって、スペイン人から鉄を得るだけでもインディオは、金銀をはじめとする財産に対して充分な代償を得ることになる。そのほかにも小麦、大麦、豆類、葡萄、馬、やぎ、ラバ、牛、羊、山羊、豚などはスペイン人が運んだものである。征服に反対を唱えるラス・カサスたちの一派は、インディオに数多くの恵みがもたらされるのを阻害する暗愚の徒である。
ラス・カサスは怒りを込めてこれに反論する。インディアスヘ布教に渡る者は敬虔な信仰と愛情を抱く者でなければならない。スペイン人の模範的な生活態度をインディオが間近に見れば、彼らの説く信仰の真実をもっと速やかに理解でき、また信じもするだろうからである。しかるに布教に先立ってインディオを戦争によって服従させるのは、まったく逆の手段というほかない。もともとインディオには、キリストの宣教を聞くべき義務はない。キリスト教の布教に耳を傾けるよう強いることもできなければ、信仰を強制することもできない。「あなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、……足のちりを払い落しなさい」(マタイ、一〇章、一四)と福音書も教えているとおり、足のちりを払ってその場を静かに立ち去らねばならないのだ。戦争による征服ならびに布教は、インディオにキリスト教徒への憎しみをもたらすだけである。スペイン人が信じている神に唾を吐きかけ、そのような残虐な行為を許している法律を憎悪し、布教する信仰を偽りと思うだろう。恐怖心からやむなく信仰を受け入れるようなことがあってはならないのである。金銀についてのあきれるばかりの詭弁に、ラス・カサスは哀れみすら覚える。価値のない金銀を目の色を変えて欲しがっているのは誰なのか。スペイン人こそ金を崇める偶像崇拝者である。インディオにはインディオの食物があり、産物があり、それで穏やかに満ち足りた何千年もの歴史を重ねてきている。スペイン人が持ち込んだ品物を、いまさらありがたがる根拠がどこにあろうか。しかもインディアスからスペインヘ持ち込まれた農作物、香辛料、その他の産物については眼をつぶるセプルベダ博士の傲慢な身勝手さはどうだろう。
インディオは劣等か
セプルベダ博士はさらに言う。世界には、生まれながらにして他人に服従しなければならない人々がいる。愚鈍で理性に劣る人々は生来の奴隷となるべきであり、より優秀な有徳の人間に従わねばならないのだ。完全な者が不完全な者を、力のある者が弱い者を、そして優れた者が劣った者を支配し、治めるのが自然の法である。野蛮で劣等なインディオは生まれついての奴隷であるから、優秀なスペイン人に隷属する義務がある。
ラス・カサスは唖然たる思いでこれに反論する。インディオは決して野蛮人ではない。インディオはきわめて理解力豊かな人々であり、知性に鋭く、能力も優れ、従順な民である。整った法体系を有し、統率がとれ、治安も悪くない。読み書き、音楽、論理など教えられたもの、聞いたものはすべてにおいてめざましい進歩を見せている。何を根拠にセプルベダ博士はインディオを劣等民族と決めつけ、キリスト教徒の文明と正義を押しつけるのか。インディオにはインディオの生活があり、宗教があり、政治がある。道徳も秩序も備えた立派な人々である。キリスト教だけが最高の価値だと思い上がり武力をもってそれを強制し、恩恵を施すとうそぶくのは、許し難い悪行であると非難されて当然ではないか。
この後もラスカサスの奔走はつづくが結局インディアスの夜明けをみることもなく、その生涯を閉じることとなった。
さて、気になるのはむしろセプルブダ博士の論理である。この論理の「キリスト教」の部分をそっくり「文明」に、「インディオ」を「アフリカ人」「アジア人」「野蛮人」「未開」などなどと入れ換えればそっくりそのまま18、19世紀のヨーロッパ列強による植民地支配の論理と同じではないか。
それどころか、「自由」とか「人権」あるいは「民主主義」などといれかえれば、アメリカがイラクやアフガニスタンに爆弾をばらまいても、独裁政権やテロリストが撲滅されて自由が与えられるから却って彼等のためであるとうそぶくブッシュ政権とすら同じではなかろうか。
軍事的強者のやることは500年全然かわっていないのだろうか。
2004/7/28