ayya # 088沙也可のはなし

沙也可は豊臣秀吉の朝鮮出兵のおりに加藤清正軍の将であったが、義のたたない戦に嫌気がさし、礼を慕って兵三千人を率いて朝鮮に降伏、その際、鉄砲を伝え、金忠善という名前を賜り、武功を重ねて王寵を被り、武官ながら二品という大臣相当の官位にのぼり、土地を賜ってその族党、家臣が一村をなし、その子孫が無事泰平の世を楽しんでいる、という意味のことが『慕夏堂記』という朝鮮の古い漢文にあるのだそうである。

この沙也可は司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』で紹介されて一躍、有名となったと聞いている。さてその『街道をゆく』によると当時三千の兵をもつとなると一万石につき250人という基準からして、十万石以上の大名ということになり、そんな大名がむこうに走ったという記録は日本にはない。また沙也可という名前は日本の大名としては奇妙な名前でもある。よってこれは何かの音訳であろうがさて、日本名は何といったのか。ただ当時の日本側の記録に『宇都宮高麗帰陣物語』という文書のなかに、清正の家来で阿蘇宮越後守というものが曲事あって高麗へ走り申し候、というのがあるそうである。

沙也可に関しては九州読売新聞に特集があってそちらが詳しいが残念ながらいまではウェブ上からは消えてしまっている。ただしアーカイブは ここにある。

それによると

 司馬遼太郎氏は『慕夏堂文集』が記す沙也可の上陸日(4月13日)が、加藤軍でなく小西行長軍のそれであること、また同書で沙也可が自らを「島夷(とうい)之人」と称し、儒教的教養も見られることから、沙也可を小西軍に属し、かつ朝鮮との関係も深かった対馬の宗義智配下の武士、と推理した。

 一方、神坂次郎氏は小説『海の伽ヤ(かや)琴』で、沙也可を紀州雑賀(さいか)衆の首領・鈴木孫市郎に比定、「雑賀と名乗ったのを聞いた朝鮮の人々が、沙也可と表記したのだろう」とする。雑賀衆は一向宗信仰で結ばれた鉄砲傭兵集団で、石山合戦では信長を苦しめたが、天正13年(1585年)秀吉に滅ぼされた。秀吉に叛(はん)する理由も、『慕夏堂文集』が鉄砲技術を朝鮮に伝えたと記す、その能力も、十分に備えている。

 司馬、神坂説とも、沙也可投降の背景にまで踏み込んでおり説得力のあるものだが、歴史作家ならではの仮説であり、史料的に裏付けることはできない。名前からのアプローチでは、沙也可の人物像は浮かび上がってこないのである。

とあり、神坂次郎氏の雑賀説というのも一歴史ファンとしては想像力を 刺激するはなしではある。織田信長を先進的な鉄砲部隊でもって敗走させた雑賀衆の子孫がサヤカであるというのもロマンチックという気がする。

さて、この沙也可が誰であるかを比定することは難しいが何らかの仕方で実在したらしいことは間違いなく、NHKテレビシリーズ街道をゆくでは、沙也可の子孫であるという金さんたちがぞろぞろと韓国全土から集まってくるあたりは壮観でさえあった。これだけの人々は自分は降倭(降伏した日本人)の子孫であるということを誇りとして、積極的アイデンティティーとして持ち続けているという事実はじつに興味深いといえる。

ところで、この沙也可、1910年時点では日本人ではない、という説が有力であったという。これまた、上述の一部であるけれども、

 ところが日本側の史料には、沙也可という武将の名は一切見えない。このため、沙也可はかつて、日本人にあらず、とされてきた。

 朝鮮研究会主幹の青柳綱太郎は1910年、「沙也可は乃(すなわ)ち此(この)麗和(混血人)に非(あら)ずんば、或(あるい)は志を得ずして辺海に放浪し、常に麗和或は所謂(いわゆる)倭寇(わこう)と結んで頗(すこぶ)る我が軍国の事情に通ぜる覆面の韓人には非りしか……彼が清正先鋒の武将に非ず、征韓軍中の我が武将に非ずと云(い)ふ事は茲(ここ)に断言するに於(おい)て躊躇(ちゅうちょ)せざる也」(『日韓史蹟』)とした。

 また、東洋協会専門学校京城分校長の河合弘民は1915年、『慕夏堂文集』刊行の目的について、当時清の圧迫下にあった朝鮮が「公然清国に反抗する能(あた)はざるを以て、壬辰援兵の来りし明朝の高義を論じ一面日本軍大敗の事実を捏造(ねつぞう)して敵愾心(てきがいしん)を鼓舞したるもの」と断じ、「今日尚(なお)、如此(かくのごとき)偽書を信じ、沙也可の如き売国奴の同胞中にありしことを信ずるものあるは遺憾の極なりと云ふべし」(『慕夏堂史論』)とした。

 『慕夏堂文集』は1798年になって刊行されたものだから、史料批判はもちろん欠かせない。

だそうである。これ自体が1910年代という時代の空気を感じさせておもしろいが、この説には彼等のいわんとするところとは別に魅力がある。つまり、倭寇というものが中国人・朝鮮人・日本人とそれぞれの主権国家に属するものでもなく、まして、それにひきづられた民族に属するものでもなく、この海域の人間が頻繁に往来し、状況によってどこにもつき、どこにも反したという点である。例えば、やや時代は下るが、清朝初期に海民を率いて、明朝復興を目指して台湾を根拠地に清朝と戦った鄭成功は平戸の生まれである。父は中国人、母が日本人というが、国籍の制度が海民に対してそう強烈にあったわけでなし、ようするに往来があり、人は国家に属してなぞいなかったということであろう。もちろん言葉の障害があるわけであるけれども、方言のことをいえば、日本の中でもそう簡単には言葉なぞ通じないし、中国語の地方差もほとんど別の言語であったという。

この雰囲気はしかし、つい最近まで生きていたことがドキュメンタリー映画海女のリャンさんにみられる。リャンさんは済州島の生まれだが、故郷の済州島の親元に娘を残し、海女の腕を頼りに対馬、九州沿岸から、伊勢、静岡までわたりあるいて海女をつづける。大阪で民族運動の闘士と再婚するが、なにせ活動家は収入がない。戦後、夫は朝鮮学校の教師をつとめるがこれまた無給だったそうである。そんなわけで、結局家族全員の稼ぎは彼女の海女収入にたよるわけである。ところが戦後、韓国と朝鮮が対立、済州島では李承晩に対する蜂起が起き、その報復として同政権による虐殺がおきる。リャンさんの両親はなくなり、孤児となったリャンさんの娘は孤児院で過したのち韓国半島部に移住して生活をたてるようになる。いっぽう大阪で生まれた息子たちのうち二人は帰国運動で朝鮮にわたるが、はじめて見る祖国には過酷な生活がまっていた。日本に残った息子も東京に行く。家族が日本・韓国・朝鮮とわかれてしまい、国境が彼等を分断するというわけなのだが、興味深いのはリャンさんのフットワークである。海女に関しては対馬が豊漁と聞けば対馬に潜り、近鉄電車で伊勢に行って伊勢でもぐり、そうかと思えば静岡である。しかも、映画で「実は」のひとことが入るたびに済州島に密航し、釜山に密航する。そして、息子に会いにいくといってこんどはマンギョンボン号に乗り組むといった体である。あるいは民族活動家との結婚から民族への意識はあるのかもしれないが、国家はこの人にとっては移動を阻むジャマものでしかないようである。およそ帰属意識というものが感じられない行動ぶりである。

はなしを沙也可にもどす。秀吉の朝鮮出兵は出兵された朝鮮の人にとってはよい迷惑であったろうが必ずしも誇大妄想であったとは思わない。わずか40年後に清朝が満州から少い人口ながら大明帝国を制圧したことを考えると当時世界一の鉄砲生産国で使用国であった日本の軍事力が侵略的意図でもって膨張したというのも、(虐殺や奴隷捕獲を正当化するつもりはないが)そう誇大とはいえないだろう。まして、民族国家の発想のない時代であるから、中国地方や九州へ遠征する延長線上に朝鮮や明もあるだろう。豊臣政権というのは、新恩給付でもって膨張しつづけてきた政権である。新たに与えるべき土地の消失は重要な統合原理を失うことを意味している。

沙也可の「礼を慕って朝鮮王朝に臣従したい」というのはいかにもリップサービスであろう。むしろ日本の側でのっぴきならない状態になって、寝返るにあたっての美辞麗句のたぐいかと思われる。日本ではついこのまえまでこうした寝返りが日常茶飯事であったのである。その寝返りさきとして、朝鮮王朝への寝返りというのが、大友から毛利への寝返りとか、有馬から島津への寝返りとかそういう延長線にあったのではないかということである。

ようするに日本人とか、朝鮮人とか、中国人とかそういう国籍感覚に乏しい人だったのではあるまいか。

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2005/06/10