ayya # 090 身の上相談(明治篇)

少しく前から、 鶴見良行著作集を読んでいる。その第一集の中で、鶴見は明治から昭和にいたる新聞の身の上相談欄をあつめて、論じているのだが、なんでも、身の上相談のなかには陰画のかたちで時代時代の庶民の理想が表現されていて、彼−彼女がどんな理想をもっているかがわかるだそうである。その鶴見の分析は分析でおもしろいのだが、どうにも引用された身の上相談が楽しい。ちょっとここで紹介したい。

例1
細君難。記者足下、私は先頃妻帯を致した者ですが嫁入当時は暫くはよろしかつたが、其後日増に我儘の募るのには驚き入りました。……私はこの経験から、世間の嫁入なさる娘さん方、また既に嫁入して居られる方々に一言申上げたいと存じます。
処女で嫁入されたると、又そうでなく嫁入されたるとに拘はらず、嫁入された其の時より、身を夫の犠牲とするほどの心がけで夫の厳密な言葉をよく守り従へば、夫は妻の心情を察していよいよ真実の愛を注ぐ様になり、婦人の方でも夫の厳密な言葉の中に愛情がある事が追々わかるやうになる。さうすれば、夫婦互に 頼母しくなり、家内の和合とか、一家団欒とか云ふ事が自づと湧いて来る事と思ひます。御紙上を借りて世の御婦人方に愚案を呈示し、又、記者足下の御意見を 乞ふ。(愛読生)
御心配でせう。貴下の御意見が道理に叶つて居ると思ふにつけ、失礼ながら貴下の細君の至らぬ心根を甚だ遺憾に存じます。併し、一旦添うた以上は忍耐して之を善導感化するの義務をお尽しなさる様、孔子様のいはれた『女子と小人は養ひ難し』とは斯様な 場合を指されたのでせう。古来、女子が男性に比べて苛重と思はれる道徳上の束縛を受けていたのも、ともすれば虚栄に浮かれ易く咽喉元過ぎた熱さを忘れ易 く、つまり、自ら侮る事多かつたのに原因してゐると思はれます。女子解放などとハイカラな論議をする前に女子自身として充分自重し、修養せしめる責任があるでせう。(一記者)
(『都新聞』、明治四二年四月二〇日)

さて、孔子なぞ持ち出して、儒教倫理をひっぱりだして悲憤慷慨しつつも当のヨメハンには何もできず、新聞の投書にそのウサを晴らす男と「そうだそうだ」と、やはり身に覚えのありそうな回答者がなにやら哀れを誘う。しかし、その男ども二人を尻目に「日増に我儘の募」らせているおヨメさんになにやら闊達なものを感じる。もちろん、これだけの分量であるから、仔細は不明である。が、ここには封建道徳に抑えつけられ、身動きのとれない中で独り苦しみを募らせる、といったかつて信じられたステレオタイプな明治女性ではなく、江戸時代ふうの自分の食い扶持を自分で稼ぎ、旦那が気にいらなければとっとと実家に帰ってしまう女性から地続きな女性像がみえる。

例2
私は昨年五月親戚の世話にて妻を娶りましたがこれが両親の気に入りませず、今の嫁にては血筋正しき我が家の嫁と云ひ難く又気の利かぬたちなれば、家中 の者、親戚などにも気受け悪る(ママ)し。今の内離縁するが宜しと申し渡され又離縁するに付ては親から云ひ出すは都合悪し、御前が暫く家を明け放蕩でもす るやうに見せかけその上にて御前の口から気に入らぬから離縁すると申せとの事です。私は罪も何も無い妻を離縁するは誠に道として済まず、情に於て忍びずと 存じ断腸の思ひに堪えません。或ひは両親の命に背くも如何かと存じ、一度家を妹に譲り自分は妻と二人で別に家を持たうかとも思ってゐます。(本所KO生)
(『都新聞』、明治四二年一月一七日)

明治も終わろうとしている42年である。親が嫁を気にいらず、さりとて、自分たちからいいだしにくいので、と息子に汚れ役をやらせようとする親たち。その際の手口も腰がひけていて、いったん放蕩とみせかけて、「こんな男」と思わせたのち、離縁をもちかけて円満離婚を演出しようとしている。いっぽうの息子は親と妻との板挟みに苦しみ、いっそ妹に家を譲ろうかと思いつめる。気弱な当主にある力関係がみえる。

例3
私事、本年二七歳、七年前或商人に嫁ぎ男子をあげましたが良人は他の事業に手を出した為、失敗に失敗を重ね、一家困難を極めて居る際どういふ気か身を隠しましたので私はどうする事も出来ず田舎にある良人の実家へ子供を預けて生家に帰りました。夫れから私は産婆になる積りで或る病院に入ったけれども何にしろ良人の借財が多いので時々債主が来られ、結局そこを止して或る処へ奉公しましたけれども良人の事がつきまとうて困りますから離縁した上で一人だちで働かうと決心し、良人の許に参りました。処が丈夫に育った子供を見ると裁判にかけて迄もと思った事も打忘れ、此儘にと思ひました。
けれども帰宅して静かに考へてみますと矢張独り身になった方が行末のための様に思ひます。実は親戚は一つでも若い中に再縁せよと申しますけれども、どうしても再び良人を持つ気になれません。如何でせう。此際、断然離縁して看護婦にでもなりまして」
(『都新聞』、明治四二年四月二三日)

ここでも、八方丸く収めようとひとり苦心した挙句、どうしようもなくなって死のうとか、いうのではなく、断然離縁して看護婦にでもなろうか、と実際的な選択にかかっている、ここに問題解決のためには裁判も辞せず、また暮しむきの改善ためには現実的な対処を考える極めて活動的な女性像がみえる。いっぽうの夫のほうはなんだかこれでは夫婦善哉のごときダメ旦那である。しっかり女房にダメ男。ああ、織田作の世界か。まだまだつづく。

例4
私の夫は車夫ですが昨年世の不景気につれ家業も思はしくありません故、夫婦相談の上、暫くの辛抱と諦め、夫の父母、近所の方々には当分国許へ帰ると偽りまして実は山梨の片田舎に僅かの前借を以て身をひそめました。其の後、どうかして早くもとの通りになり度しと存じ夜いくらおそくなりましても朝は早くおき裁縫などを内職にして御主人大事とつとめました為め、今では借用の金子も大半返した事となり自由の身となりまして二五、六人の裁縫の弟子をとり誠に楽な有様となりました。それで夫にもこの事を通知致し、なる事ならば夫を呼びよせて共稼ぎに二、三年辛抱致し、小金でもこしらへて東京に出たならばと存じその旨夫に申し送りましたが頼み難きは男の心、夫は早、私の事はサラリと忘れ果てたものか家内を娶りその為私の手紙には返事もくれません。御主人が親切にもいろいろと諭して下され、ソンナ夫は思ひ切って、此の地にて立派な。人間になり人に立てられるやうになってくれとの御言葉、それもさうかと思ひ直して今はジツと堪える事に致しました。私の身の行末はどう致したものでせうか。(信子)
(『都新聞』、明治四二年「月二九日)
例5
学校は高等三年まで行ってそれから裁縫や瓶細エを稽古してゐるのです。これから外国人の妾にならうかと思ふのですが如何でせう。
(『都新聞』、明治四二年「月八日)
例6
家が苦しいので妻を前借百五拾円で芸者にしたがその後営業には失敗する、脚気にはかかる、非常に困難してゐるから廃業させて欲しいがどうしたらよいか。
(『都新聞」、明治四二年一月七日)
例7
姪と結婚することが出来るか。
(同右、明治四二年四月七日)

明治女性の現実性、あるいはプラグマティックなノリには感心するばかり、どうにもならない悩みをどうしたいというわけでもなく、クドクドならべる愚痴とは異なり、ここにあるのは現実的な処方の選択である。さて、これが大正期、昭和期を迎えてどう変化するのは次回。

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2006/03/28