「さて、これが大正期、昭和期を迎えてどう変化するのは次回」などといって一年も放置してあった身の上相談であるけれども、大正時代である。
- 例8
- 〈良人の為に〉――以前芸者をして居たものですが、一昨年嫁し家内六人楽しく暮して居ますが、此頃夫は海外に出て商売し成功してみたいと申します。就 ては手元の金では不足ですから、私がもう一度芸者に出てその金を出さうと相談しましたが、妻を売つて迄も店を出さうとは思はぬと申します。私も三年間も一 緒に住んで居る事故なる丈出たくないのですが一日も早く成功させたい一念から以前世話になつた人に話した処、前に出た家から出るなら目見えも入らぬと引受けてくれました。そして金の出来る迄は良人に秘密にして貰ふ様に頼んで、二三日の中に来る筈です。私として取るべき道を御示し下さい。(大田町心配女)
(『都新聞』、大正七年一〇月二〇日〉
自ら金を稼いで、と行動的なところは明治以来ではあるが、夫のために、夫を成功させたい、と貞女といおうか、他人本位といおうか、そろそろと明治政府のおもわくが浸透しつつあるようにもみえる。
- 例9
- 〈無情な良人〉――母は私の幼時に祖母の許に私を置去りにして或人に嫁しました。処がその人に子供がないのでその人の弟が養子に入り、私がその弟の妻 に入籍したのです。斯うした因縁の為か良人はその後時々家出しましたが、私の二四歳の時迄同棲し行方不明になったのですが、その時妊娠してゐて翌年二月女子出産致しました。その後老父母と乳呑子を抱へ送金のない家計を一生懸命働き、人に指さされぬ様に努めましたが良人は更に帰りません。
人のうはさでは他に女を持って居るとか。子供の出来たのを知れば一本の手紙もある筈と思ひますが、今では凡て諦め、無情な夫には末の見込もなし、幸ひ父母はさまでの年ではなし、子供の養育費を置いて私は家出の覚悟をしました。就いては籍の事が心配ですが戸主の権利で抜けないものでせうか。家出は良人の承諾がなければ駄目でせうか。(浅草、豊子)(「都新聞』、大正七年九月一〇日)
戸籍制度の効果があがって、家出をしようにも戸籍が気にかかって、できずにいるようである。すでに家出をした夫の承諾をもらって家出というのも何やら奇妙な感じもするが、そろりそろりと女の人をがんじがらめにしていく鉄鎖がまとわりついているのがわかる。折しも、この四年後には「元始女性は太陽であった」で『青鞜』が創刊されることになるわけだが、青白い月への道を歩みつつあるところである。
- 例10
- 〈九ヶ年間の苦労も酬ひられずに〉――私は三〇歳になる女で九年前に嫁したのですが、当時無一物であったのを私は私として一生懸命働きましたので、昨今は相当に金も残るやうになりましたが、此様にして生活も楽になると夫は思ひやりなく、そして勝手な行ひをし、二た言目には出てゆけとつらく当ります。 尤も結婚以来冷い人であつたのですが、生活が困難な為めか大したこともなかつたのですし、どうにかなれば、又月日がたつにつれてよくなるであらうと考へて辛抱して来たのですが、事実は全然反対の結果になつた為め、私は立つ瀬もなくなりました。時にはいつそ処決をしようかと思つた事も度々でございました。私には親兄弟は一人もありませんので仲人に相談しますが、どうにも煮え切れませぬ。思ひ切つて離婚しようかと思ひますが、さてさうなると一文なしになりますし、折角九年も辛抱し、そして出来た貯金も多分は私の働きによるのですけれども、離縁となればくれさうもありません。
仲人は金を持出して一年も身を隠して居ればよいと申しますが、さうした事が出来るものでせうか。猶実家もありませんが出るとなれば、籍は友人の家にとりたいのです。如何なる手続きで出来るでせうか。
(京橋、加女)
(『都新聞」、大正一四年三月二九日)
さんざん辛抱したが、我慢ならぬというが、やはり戸籍制度が桎梏となって動きがとれないでいるらしい。国家が民衆の生活の実態を支配する傾向が強まってきているようである。
さて、昭和時代へと時代は突入する。
- 昭和時代
例11- 〈四十男の不身持ち〉1私は隣の細君から左の相談を受けましたが思案にあまり、本人に代っておたずねします。
妻は三三歳夫は四〇歳、片田舎の自作農で、大した資産はないが生活に困ってはおりませぬ。夫は友人との交際だといって、今春来料理屋へ宿ってくることが数度あって変だと思っているうちに、この頃夫の着物の袖から女から来た手紙が出ましたので見ると、料理屋の女将(夫ある身)と怪しい仲になっているのが分ったのです。昨夜もその料理屋で飲んで遅く帰り、泥酔して、気に入らぬから出てゆけと妻に申しますが、子供の三人もある身で出てゆかれません。舅姑や実家の両親には話したくないし、世間でもまだ知らぬようですから、今のうちに何とか夫をこの女から離すようにしたいと思ひますが、よき智恵を御かし下さいませ。
(東京朝日新聞社編、『女性相談」、一三一頁。 この書物は昭和六年五月に「朝日」紙上に身上相談が設けられて以来、昭和七年三月までの山田わか女史担当のものを集めたものであるから、以後同書物からの引用はこの時期のものと理解されたい。)
- 例12
- 〈放蕩の末、家出して居所も知らさぬ夫〉――三一歳の女、家は代々農家でなに不自由なく、現在三児があります。夫は三年程前から芸妓とねんごろになり、父祖伝来の財産を大部分傾け、結局何か一働きしてくるとて去年大阪に行き働いている様子ですが、居所も知らせず、只子供を頼むとか、成功して帰るなど申して参りますが、芸妓とは依然文通し、芸妓も決して別れぬと申して居ります。家は農家のこととて、男手も必要としますし、女と幼児では、不用心でなりません。どんな方法をとったら芸妓と別れさせて、夫を目ざめさせられましょうか。
(『読売新聞』、昭和一〇年三月二日)
理想もしくは目標が、「夫を芸妓と別れさせる」となっていることに注目したい。ここではもはや、自分がどうするということではなくて、夫をどうにかする、あるいはしてもらうという形でしか、現状打開の道をみつけられなくなっているのである。
- 例13
- 〈相通じぬ夫婦の心〉ー二八歳の三人の子の母です。八年前に結婚したのですが、夫婦仲は非常に冷たく、今日は楽しいと思った日は一日もありません。しかし、これが結婚かと思っていました。
夫は旅商売で、一年に一度か二度しか帰って来ませんが、帰る度に「妻らしくない。夫婦らしくない。お前の愛情は親に八分夫に二分しかない」といったり、又は他に関係した人があるだろうと疑って私を責めたりします。夫婦というものはいくらでも話があるものだと申されますが、私は心ではあれもこれもと思いながら、夫の顔を見ると、つい他人のような気持ちがして、恥ずかしく又恐怖心さへ起って来るのです。夫も「結婚生活ってこんなに淋しいものか。こんなに冷たい家庭はいらない。他に女でも持つか、離婚しよう」と度々申します。けれども、私は夫と別れれば死んでしまいます。夫はまた「妻子が可愛いから、他の女とも関係せず一心に働いている俺の心が分らないか」だの「親のきついのは辛抱出来るが妻の情愛のないのは辛抱出来ぬ」と云います。私はいつも夫の行いを心で泣いて喜んでいますが、なぜ私のこの心が夫に分らないのでしょう?私は度々死んでしまおうかと思いますが、子供の顔を見てはそれも出来ません。
(山田わか著『私の恋愛観』二二頁。同書は昭和一〇年度、『朝日新聞』掲載の身上相談を収録したものである。)。
そんな心の通じない相手なら見捨ててしまえばよさそうなものだが、そうした場合に生活をたてる方法がないのか、そんなことは思いもできないのか、「いっそ死んでしまう」という。ようするに解決策なしというわけである。そして、それさえ、「子供の顔をみてはそれも出来ません」とまったく処置なしとなっている。悩み相談とはいいながら、もはや方法の相談ではなくて、辛い胸の内の吐露といった状況となっている。
- 例14
- お互いに愛し合って結婚して七年になる二六歳の妻ですが、子供はなくとも二人の仲に何の不満もなく、清い体の夫で御座いました。だのに、如何に酒のためとはいえ前後不覚になって友人に連れ込まれて、不潔な行為をして性病をうつされて参りました。私が泣けば夫は「悪かった」と申します。けれども、それは夫を責めるための涙ではなく、永久に返らぬ清い夫の体に対する追慕の涙で御座います。
今後、病気がなおってもその行為はほろびず、又清い体にもなり得ません。とても元通りのすき間のない夫婦生活は望めませんから、私は荷物を片着(ママ)けて実家へ帰る積りです。清い体の私の夫はその日限り死んだ、もうこの世には居ない者と私は思おう。口惜しゅう御座居ます、苦しゅう御座居ますが、過去の清かった夫に操を立てて一人になって有りし日の夫を忍(ママ)びたいと存じます。私の考えは間違っておりましょうか。
(前掲『女性相談』一五九頁)
理想はもはやとりもどし得ない過去の幸福だった生活であり、過ぎ去ってとりもどしえない回想にひたって生きたいという。これからの生活にもはやいかなる目標も考えられないようである。それはそうと、こういったこの人が実際、この後どう行動したかが知りたいところである。根拠は乏しいがどうも、嘆きつつ、そのままの生活を続けたような気がする。
- 例15
- 〈地位と金が出来て、妻子をよそに夫の別居〉――私どもは結婚二七年、長女、長男、次女と三人の子供があり、長女は既に嫁ぎ孫も二人あって幸福に暮しております。……主人も収入の少い時代はそれは地味にまじめに暮していたのですが、社会的にもそれと知られる地位につくようになりましたら、会社の女事務員と別世帯を持ってしまいました。家には生活費は入れるから文句はいうなといっております。私としてもすがり切っている子供の手前もあり、余りとり乱したり、あたりちらしたりもできず、とに角自分は人の道にはずれた事は一生すまいと心に深く誓っておりますけれども気の弱い女の悲しさ、つい心のうちで泣かぬ日はございません。……どういう風に私の心を処理したらよろしいのでしょうか。
(中野区S子)
(『東京新聞』、昭和三一年八月一〇日)
ついに具体的な関心はこれからの現実生活の変革ではなくて、「私の心を処理」することとなっている。かくて、経済的に依存を余技なくされ、家事に縛りつけられて、自身の運命は夫をはじめとする家族しだいで、自己決定権をもたない、女性というステレオタイプが完成するというわけである。
もちろんこれらは鶴見が多くの悩み相談の中からチョイスしたものだから、選択の段で彼の判断によったものが出ているわけで、この流れとは異なる人々がいたことは想像に難くはない。家制度でがんじがらめとなり、動きがとれずに、怨みのこころをひとり胸の内に沈めていく女性という像は例えば、『蜻蛉日記』の昔から存在はするわけではある。しかし、件のタイプが長い歴史のなかで、ずっとほとんどの女性の現実であったというよりは、明治以降、大正・昭和の時代に急速に完成していったものであるということには留意しておきたいところである。